入間誠吾

入間誠吾(いるませいご:1934~)

系統:津軽系

師匠:島津彦三郎

弟子:

〔人物〕 昭和9年10月30日、青森県南津軽郡大鰐町大字蔵館字村岡に生まれる。実家は大工業。嶋津誠一の弟と学校友だちだった縁から、昭和25年に大鰐町大字蔵館字宮本の嶋津木工所へ入所し、嶋津彦三郎の弟子となった。こま、ズグリ、こけしなどの玩具類を挽いたが、こけしの描彩はしなかった。昭和43年、蒐集家の鹿間時夫の訪問を機会に、初めて描彩をし、その後注文があれば描彩をした。描彩は昭和43年からであるがさらさらとした草書体でケレン味がない。昭和初期の嶋津一派のこけしを思わせるその素朴さ泥臭さにおいて、その当時の多く作られていた一般型津軽こけしとは格段の相違があり、蒐集界からは注目を浴びた。
その後、注文も来るようになり、嶋津木工品製作所で職人を務めながら、こけしの製作を続けた。
晩年の詳細は不明である。既に泉下の人になったと聞くが没年も不明である。


描彩する入間誠吾 昭和43年8月

〔作品〕嶋津の工場では5寸程の定型木地を、嶋津誠一や、新山久一、入間誠吾といった職人たちが大量に挽き貯めてあって、注文があれば女性描彩者などが面描を施すといった生産形態が戦後長く続いていた。昭和40年代になって鹿間時夫などの愛好家が訪問して、嶋津工場の個々人が特定できる形で描彩を依頼するようになり、作者の明確な作品が世に出るようになった。
下掲5寸は、昭和43年に橋本正明・箕輪新一両名が嶋津工場を訪問して、個々の職人に描彩を依頼したときのもの。このときの経緯は〈こけし手帖・95〉に詳しい。面描は入間誠吾であるが、木地はダンボールの中に大量の挽き貯めてあった中から取り出して描いたもので、木地を挽いた人の特定は出来ない。
極めて怪異な面描で、入間誠吾自身が「へただ。へただ。なんぼんつぐったらうまぐなるんだかなぁ。」と言いながらさらさらと描いた。津軽の風土に体質的に同化した作者の作為のない作品として注目された。


〔15.0cm(昭和43年8月)(橋本正明)〕

上掲の作品などが契機となって津軽への関心が急速に高まり、各地のこけし店でも注文を出すようになった。下掲6寸は翌春に高円寺のねじめから売られたもの。前年の怪異さはやや薄れたものの、グルーミィな独特な情感は残していた。


〔 18.0cm (昭和44年4月)(橋本正明)〕

入間誠吾は依頼に応じてこけしを製作を続けたが、初期の怪しい魅力は次第に薄れていった。後年の作の描彩は誠一の妻幸子が行っていた可能性がある。


〔 24.0cm(平成12年)(高井佐寿)〕

 〔伝統〕津軽系温湯亜系
嶋津木工所は大鰐にあるが、嶋津の祖は温湯から大鰐に移住してきた工人であり、そのこけしは温湯からの継承と考えられているので、温湯亜系とされる。

〔参考〕

  • 橋本正明:動き出した大鰐〈こけし手帖・95〉(昭和44年2月)
[`evernote` not found]