岡崎斉(おかざきひとし:1897~1982)
系統:鳴子系
師匠:岡崎仁三郎
弟子:岡崎斉司/本間留五郎/天野正右衛門/佐藤三春/後藤善松/疋田重安/疋田重信/佐藤義一
〔人物〕 明治30年7月1日、宮城県玉造郡鳴子の岡崎仁三郎・とき(戸籍表記は旧かなの登記)の長男に生まる。斉吉(才吉)は弟である。鳴子尋常小学校を 卒業、高等科を1年で中退し、硫黄会社に入り約2年間勤務、その後鳴子ホテル、観光ホテル等の帳場を手伝った。明治44年15歳ころより木地を挽くようになった。技術は父仁三郎の挽くのを見て自然に覚えた。大正4年19歳のとき、高橋寅蔵の職人となり、小松五平、佐藤政治郎、佐藤初三郎とともに働いた。大正6年21歳で仙台に行き、福々商会に入った。当時、福々商会の職人には斉のほか、会津生まれの某、鳴子の大沼健三郎、遊佐民之助、遊佐吉男がいた。仙台では3年ほど働いたが、脚気になり鳴子へ戻った。大正8年23歳で中山平出身のふみよと結婚、以後自宅で木地業を続けた。弟子には、本間留五郎、天野正右衛門、佐藤三春、後藤善松、疋田重安、疋田重信、佐藤義一がいる。岡崎斉の名前は〈こけし這子の話〉の当時から知られていたが、文献にこけしの写真が載ったのは〈郷土風景・第1巻・6月号〉が最初であり、名前と写真の紹介は橘文策の〈木形子〉が最初である。昭和22年鳴子町議会議員となり昭和30年まで2期8年間を勤めた。昭和26年鳴子木地玩具協同組合が発足したときには、初代理事長に選ばれた。また簡易裁判所調停委員や民生委員、温泉神社総代などの要職にも就いた。その間も、鳴子町湯元96で、長男斉司、孫斉一とともにこけしを作り続けたが、昭和44年ころから健康を害し、昭和47年に手術を行った後は自家で療養を行った。昭和57年7月10日鳴子で没、行年86歳。
他人に接するときは柔和であったが、家庭内では厳格であったという。
〔作品〕 大正8年に仙台から帰って鳴子の自宅に落ち着いて以来、一貫して鳴子で木地業を続け、注文により こけしも製作したが、昔から製作数は少なく、手に入りにくい作者の一人であった。作風は、温厚で上品なこけしである。
大正期と思われる作が小野コレクションおよび石井眞之助旧蔵品の中にあった。小野旧蔵は頭部、胴ともに太く雄渾、特に横広がり頭部と伸びやかな面描は見事である。両鬢は横広がりの頭に合わせて四筆で描かれている。
石井旧蔵品は褪色が惜しまれるが、頭部、肩、そして胴部へと続く姿は美しく、特に型の膨らみと造形のバランスが古風である。上掲、下掲は、上品な表情の描彩とともに斉の最盛期の作であったろうと思われる。
下掲写真は名和コレクションのもの、昭和初期のものであろう。大正期から昭和初年の作は頭が横に広く、やや蕪形で大きい。鼻も二筆で、岩太郎系列の特徴をよく残している。
昭和10年代になると、頭形も戦後の作に近く、端正な表情になる。下掲写真のこけしは胴の菊華の部分にのみ蝋引きしてある。
〈古計志加々美〉の二本は昭和15年のもので、眼点もやや大きくなり、明敏な表情になるが、うるおいは多少乏しくなる。背に紀元2600年のスタンプを押したものもある(無為庵閑話参照)。岡崎斉の戦前ものにはこの時期の作品が多い。
下掲の深沢コレクションのものもほぼ同時期の作、このこけしにも菊華の部分にのみ蝋引きした形跡がある。蝋が高価だったので全体には塗らなかったのかも知れない。
〔27.8cm(昭和15年頃)(日本こけし館)〕 深沢コレクション
戦後は自分の店に作品を並べるようになった。その作品は、次第に頭部が丸くなり、頭と胴の量感が出て、豊麗な味を示すようになった。昭和15年と比べると、昭和40年代の作品のほうにやや品格が感じられる。
胴模様には、菱菊・重菊・撫子・牡丹・桔梗・楓などがある。
〔系統〕 鳴子系岩太郎系列 後継者に岡崎斉司ー岡崎斉一がいる。
〔参考〕
- 第781夜:岡崎斎と鳴子共通型
- 無為庵閑話Ⅱ;こけしの話(31) 岡崎斉