岡崎仁三郎

岡崎仁三郎(おかざきにさぶろう:1868~1937)

系統:鳴子系

師匠:大沼岩太郎

弟子:岡崎斉/岡崎斉吉

〔人物〕 明治元年6月18日、宮城県玉造郡岩出山町の岡崎鉄治・たきの次男に生まる。祖父は士族岡崎丈七。母たきは鳴子大沼岩太郎の姉であり、たきの母とめ(戸籍表記は変体仮名の登免 大沼甚五郎の妻)は大沼源蔵の妹に当たる。明治6年父鉄治が没し、また明治9年4月の岩出山の大火では被災し、焼け出された。このとき岩出山の伊達家の霊廟や八幡神社の長床や樹林なども焼失した。そのため一家は母たきの実家である鳴子の岩太郎のもとへ移った。仁三郎は叔父岩太郎について木地を習得、主に塗下地を挽いたが、こけしも作った。妻とき(戸籍表記は変体仮名の登記)は源蔵湯の出身、息子には斉、斉吉、斉三の三人がいる。源蔵湯(現在の鳴子観光ホテル)の下隣りに昔は家を構えていたが、明治45年に向かい側の現在岡崎斉一の店の場所に移った〈こけしの追求〉。昭和12年3月10日鳴子没、行年70歳。弟子には岡崎斉、斉吉兄弟がいる。

岡崎仁三郎

岡崎仁三郎

〔作品〕 昭和初期までこけしは作っていたという。中坊主(6寸位)に紅葉を描いていたと斉は語っていた。〈こけしと作者〉に仁三郎名儀のこけし4寸2分が載っている。胴模様は紅葉ではなく菊模様、また胴の上下にはロクロ線が加えられているように見える。このこけしの現在の所蔵者は不明である。

〈こけしと作者〉図版 右仁三郎、左斉で紹介されている
〈こけしと作者〉図版 右:仁三郎、左:斉で紹介されている

深沢要の〈こけしの追求〉によれば大沼竹雄のこけしが仁三郎名儀で所蔵されていた事例があるというから〈こけしと作者〉所載のこけしもあるいは大沼竹雄作かもしれない。一方、仁三郎の作風は岩太郎ゆずりのものだったはずであるから、竹雄とも通じるものだった可能性はある。

平成14年10月刊の〈伊勢こけし会だより・105〉に塚越勇の「鳴子系岡崎系列不明こけしの追求(岡崎仁三郎?)」が掲載されている。塚越勇は下に掲載の写真を掲げ、種々考察の結果「伝・岡崎仁三郎」としている。この2本のこけしの特徴となる点は、胴の菊模様の踊るような描き方であろう。中央の花弁は左上から下ろされ、それを受けて右花弁が「くの字型」に続けて一気に描かれる。確かにこの描法は岡崎斉、斉吉兄弟の筆法とは異なる。また大沼竹雄とも異なる。
一応、仁三郎の可能性のある作品として紹介する。

〔12.0cm、12.0cm(大正中期)(塚越勇)〕 梅木 直美さん(山形こけし工人) - チャレンジ応援やまがたwidth=
〔12.0cm、12.0cm(大正中期)(塚越勇)〕 〈伊勢こけし会だより・105〉
 
下の写真は鈴木康郎蔵で、昭和6年に大阪のやつで会で頒布されたもの。この胴の菊花の描法も、塚越蔵と同様に右花弁が「くの字型」であり、仁三郎の可能性のある立ち子の一つである。昭和6年と言えば、仁三郎がまだ60代であるから、十分仁三郎が製作していた時期である。

〔5.8cm(昭和6年)(鈴木康郎)〕 やつで会の頒布
〔5.8cm(昭和6年)(鈴木康郎)〕 やつで会の頒布

系統〕 鳴子系岩太郎系列

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