土湯の木地屋。山根屋の祖(井桝屋分流といわれる)。こけしを作った渡辺作蔵の養父岩治郎の父が二代目源五郎(明治12年5月16日没、行年不明。常安宗心信士)で、二代目源五郎の父が初代源五郎(天保4年10月5日没、行年不明。寒巌良松信士)である。文政10年の君ケ畑系氏子狩に応じた土湯の木地師源五郎は、ともに氏子狩に応じた加藤重蔵、陳野原彦平、佐久間亀五郎との年齢比較、初代源五郎の没年天保4年を考察すれば、初代源五郎であったと思われる。
初代源五郎は教育問題に関して非常に熱心で、土湯に寺子屋を開かせた最初の人といわれる。
この源五郎は、文政6年に村民10名で伊勢、金比羅参りを行い、帰途京見物を行ったが、京都の宿屋について旅籠帳を出されたとき、10名中7人が自分の名前を書けないのに愕然とし、教育の必要性を痛感したという。これが源五郎が土湯に寺子屋を開く契機となった。このときの金比羅の石碑(願主源五郎)は土湯の坂を登った上に残っている。
源五郎と一緒に、伊勢、金比羅参りを行った他の9名の同行者が誰であったかは記録に残っていない。文政10年に同じ氏子狩に応じた湊屋の佐久間亀五郎も同行者であったかも知れない。亀五郎が伊勢参りに行ったという伝承は残っている〈木でこ・2〉。文政年間は比較的天災飢饉も少なく安定していて平穏な時代であり、会津若松、米沢、二本松、福島を結ぶ往還の結節点として交通要衝の地であった土湯の家々には財力もあって、伊勢、金比羅参りを行う余力は十分あったであろう。こうした旅の途中で、箱根小田原の染料を用いる木地玩具に出会ったことが、土湯に新しい赤物木地、そしてこけしが生まれる下地となった。
源五郎家は後に山根屋を号し、寺子屋の優等生であった作蔵が初代源五郎の曾孫クラの婿となった。
〔参考〕
- 橋本正明:土湯における氏子狩の木地屋〈こけし手帖・121〉(昭和46年4月)