信夫郡土湯村(福島県)の名主で、木地業も行っていた。当主は代々家名の四郎兵衛を名乗った。弘化2年君ケ畑(1845)、嘉永2年蛭谷(1849)、安政4年蛭谷(1857)、明治5年君ケ畑(1872)の氏子狩に応じている。下掲は弘化2年の君ケ畑氏子狩帳で左頁に「信夫郡土湯 阿部四郎兵衛 木村弁十郎 二階堂幸吉 阿部弥七」の記載がある。この記載には誤記も多く、木村弁十郎は木村屋の木村伝十郎のこと、二階堂幸吉は吉田屋分家の二階堂寅十のこと、阿部弥七は稲荷屋佐久間弥七のこととされる。
また土湯はたびたび幕領となったので時期に応じて幕府による検地の対象にもなった。延宝年間に行われた式年検地(1677年に行われた)ではその検地帳に阿部(安部)四郎兵衛として「明戸鮒下畑七間二間半拾八歩、菅沢下畑二十間十四間九畝九歩、松下下畑十間半三間半壱畝歩、後上畑五間四間廿一歩 後屋敷九間弐間半廿一歩」の記載がある。阿部四郎兵衛家は農地も十分に持っており、農業の傍ら木地業を行っていたことが分かる。
明治5年に氏子狩に応じた四郎兵衛には、長男國松、二男辰之助、長女ソノ、三男利助、四男栄七、次女タカがいた。
國松、辰之助は木地を挽いたが、こけしは作らず、主な製品は盆、茶壷、煙草入れ、ロウソク立て、箸立てなどであったという。おそらく四郎兵衛も同様であったであろう。
明治9年1月31日没。家督は四男栄七が継いだ。
明治10年に第1回内国勧業博覧会が開催されたとき、名主であった阿部四郎兵衛四男栄七が出品者となって、佐久間浅之助等が製作した木地製品(茶入れ 茶臺、菓子入、茶盆、辨當、糸巻、芥子入、三重盃、食膳、漏斗、徳利袴、烟草入、椀、燭台、碁筺、碁盤足)を出品している。
また明治14年の第2回の内国勧業博覧会には再び阿部栄七が出品者となって、長兄の阿部國松が製作した腰高盆、茶入、菓子入、三ッ椀を出品している。
〔参考〕
- 佐藤泰平:土湯木地屋変遷〈土湯木でこ考・第3集〉(木でこ庵)(昭和37年2月)
- 西田峯吉:土湯の木地業と氏子狩〈こけし手帖・108〉(昭和45年3月)
- 橋本正明:土湯における氏子狩の木地屋〈こけし手帖・121〉(昭和46年4月)