小椋留三(おぐらとめぞう:1909~1994)
系統:木地山系
師匠:小椋久四郎
弟子:小椋英二
〔人物〕明治42年10月25日、雄勝郡皆瀬村川向の木地業小椋久四郎・キクの三男に生まる。小椋久太郎は長兄にあたる。大正11年小学校卒業後、父につき木地修業。種々の雑器を挽き、久四郎や久太郎こけしの木地下を挽いた。昭和12、3年ころ留三名儀のこけしを出し、首の廻る嵌込みとして鷹の湯等で売りだした。深沢要は手紙で照会して、次のような返信を得た。「御照会の件確実御回答申上候、小生事は久太郎と兄弟に有之候、然れどもこけしの製品は如何に兄弟親子なれども各自独特の点有之候、こけし製品は小生物は全部首廻りに有之候。型、久四郎、久太郎とは全然違い申候。小生は独立工場に御座候。少量見本品にても宜敷故御注文願い上げ候 。」そこで深沢要は注文状を送り、昭和13年8月に作品を入手して〈こけしの微笑〉でこれを紹介した。
しかし、昭和14年4月に深沢要が木地山に訪れ、描彩者を追求した結果、描彩は久太郎であり留三は描彩しないことがわかった。また前期の書状も久太郎の筆であることを確信した〈こけしの追求〉。結局、木地は一家で挽き貯めて、久太郎が久太郎型、留三型を描き分けていたのであった。
留三は、木地下を挽き、主には農業に従事しながら桁倉沼の管理も兼務していた。家は久太郎の家とは独立していた。妻女ハルエとの間の二男英二は木地を挽くようになり、後に転出して東京都下八王子でこけしを作るようになった。
留三は平成6年9月24日に没した、行年85歳。
小椋一家 昭和50年 撮影:橋本正明
左より 宏一、留三、久太郎、ミヨ、利亮、リヨ
〔作品〕木地は木地山の久太郎、留三を中心に一家で共同して挽いていたが、描彩は久太郎が一手に引き受け、久太郎名義も留三名義も描彩を行なっていた。したがって、久太郎名義のものの中にも留三が挽いたものはある。どれが留三が挽いたものかを特定することは困難である。
ただ、留三型の木地の形態は、鳴子の立ち子と共通するものであり、伊藤儀一郎などの姿とも通じる。あるいは久四郎が、小野寺梅太郎の影響で前垂模様を描き始めて、太い直胴の木地になっていく前の、木地山こけしの原型に近いかもしれない。
〔30.5cm(昭和13年)(沼倉孝彦蔵)〕
〔右より 13.9cm、25.8cm、30.0cm、25.8cm(昭和13~14年)(日本こけし館)〕
深沢コレクション 小椋留三名義の小椋久太郎作
右から二本目が〈こけしの微笑〉に写真掲載されたこけし
〔伝統〕木地山系
後継者は二男の小椋英二であったが、英二も令和2年3月22日に行年数え年76歳逝去した。
〔参考〕
- 深沢要:雪の木地山〈こけしの追求〉(昭和27年9月)(〈羨こけし〉再掲)