明治37年7月24日、東京都下谷区池之端七軒町で生まれた。生後1年6ヶ月で広島へ、さらに九州福岡へと転々として子供時代を過ごしたが、生来病弱で学校も入退学を繰り返した。大正10年に大阪の泰西学館に入ったが、大正11年に病を得て帰郷、この頃より童話の研究を始めた。大正14年大阪都島工業高校に勤務、翌15年大阪基督教青年会童話倶楽部を結成、巡回童話会などを開いた。昭和4年都島工業高校を退職、昭和5年梅田新道に行人社書店を開いたが病を得て間もなく閉店した。昭和8年に東京に移り、昭和9年頃からこけしに興味を持って産地旅行に出るようになった。昭和12年武蔵野市吉祥寺の「ナナン」においてこけしの展示会を開いた。昭和13年〈こけしの微笑〉を東京昭森社より出版、こけし産地と各地のこけし愛好者の間を頻繁に行き来する、このころすでに〈こけしの追求〉の原稿を暖めていたが、昭和17年東京から西宮に転居、鉄工所経営で多忙を極め、〈こけしの追求〉の出版は実現できなかった。昭和18年3月肺炎を発病、小康を得て〈奥羽余情〉の版木を彫ったり、陶器古丹波の研究などを始めたが、昭和21年12月二度目の肺炎を発病、翌22年1月12日西宮で逝去した。行年42才。
〈こけしの追求〉は没後の昭和27年9月20日に昭森社より出版された。
〈こけしの追求〉その他文献から深澤要の産地旅行の軌跡を追うと次のようになる。 ( )内は報告記事あるいは関連記事記載文献。
- 昭和9年秋:横山(「木形子異報・8」)
- 昭和10年:天童(「こけしの微笑」)
- 昭和12年秋:土湯(「こけしの微笑」)
- 昭和13年4月:遠刈田(「こけしの微笑」)
- 昭和13年6月:蔵王高湯、肘折(「木形子・3」)
- 昭和13年10月:福島、土湯、飯坂、白布高湯、米沢、山形、及位、湯沢(「木形子・7、8」、「こけしの追求」)
- 昭和14年3月:弥治郎(「こけし手帖・17」)
- 昭和14年4月:浪江、仙台、花巻、湯田、碇ヶ関、弘前、木地山、山形(「こけしの追求」、「木形子・9」)
- 昭和14年6月:鳴子、中山平、向町、作並(「こけし・2」、深澤書簡)
- 昭和14年8、9月:東根、新庄(「こけし手帖・46」)
- 昭和14年9月:滑津、稲子(「こけしの追求」)
- 昭和14年10月初旬:東北こけし行脚(「こけし・4」)
- 昭和14年11月:稲子(「こけしの追求」)
- 昭和14年12月:弥治郎(「こけし手帖・17」)
- 昭和15年1月:秋保、原ノ町、鯖湖(「こけしの追求」、深澤書簡)
- 昭和15年3月:小原、川俣、米沢、瀬見(「こけしの追求」、「こけし手帖・17」)
右掲はこの旅の途中で石井眞之助宛てに送られた葉書。「残雪の東北線から奥羽線に入るといやはやものすごい雪です。今度の旅で新人を一人見付け出すことが出来てよろこんでゐます。責任旅行で案じつつ歩いて居ります。
三月四日 米沢にて 深澤要」 見つけた新人というのは川俣で復活初作を作らせた佐久間粂松のことである。責任旅行というのは「三重県富田の伊藤蝠堂に頼まれたこけし旅」と言う意味、昭和15年の蝠堂の於茂千也祭のための記念になるこけしを見つけ出すように依頼されたことを言っていて、この旅で入手した佐久間粂松が、祭りの目玉となった。
- 昭和15年7月初旬:弥治郎、白布高湯、川俣、熱塩、鳴子(「こけし・9」、「鴻・1」)
- 昭和15年7月下旬:須賀川、中山平、秋保、蔵王高湯、鳴子(「鴻・2」)
- 昭和15年8月中旬:仙台、鳴子、花巻、湯本(「鴻・3」)
- 昭和15年9月:盛岡、青森、温湯、弘前、鶴岡、蔵王高湯、釋迦堂(「鴻・4」、「こけし手帖・46」)
- 昭和15年11月中旬:蔵王高湯、弥治郎、米沢(「鴻・6」)
- 昭和15年12月:小樽、旭川、釧路、川湯、登別(「こけしの追求」)
- 昭和16年1月中旬:温海(「こけし・13」)
- 昭和16年2月初旬:鳴子(「鴻・8」)
- 昭和16年2月中旬:近江君ヶ畑、蛭谷(「鴻・9」)
- 昭和16年3月中旬:平、鳴子、一ノ関、大湯、角館、弥治郎(「鴻・10」、「こけしの追求」)
- 昭和16年6月中旬:鳴子、瀬見、岩代熱海(「鴻・13」、「こけしの追求」)
- 昭和16年8月上旬:飯坂、尾花沢、及位、花舘、雲沢、湯本、鳴子、作並(「鴻・13」)
- 昭和16年8月下旬:芋沢、生出、福島、遠刈田、土湯、仙台(「鴻・13」)
- 昭和17年3月下旬:福島、飯坂、山形、酒田、鳴子(「鴻・14」)
調査漏れも多い(特に昭和9~13年)と思われるが、ここに拾い上げただけでも極めて頻繁に産地旅行を行っていることがわかる。この期間、産地旅行の合間に大阪、名古屋各地のこけし会を飛び回っていたのだから、ほぼこけし一筋の生活を送っていたことがわかる。
死後、昭和23年宮城県鳴子町の温泉神社境内に深沢要の歌「みちのくは 遥かなれども 夢にまで こころの山山 こころのこけし」の歌碑が建立された。
昭和28年に深沢要コレクションのこけしは鳴子町に寄贈された。
コレクションは長く鳴子町役場の二階に飾られていたが、昭和50年に宮城県大崎市鳴子温泉尿前74-2に日本こけし館が開館し、コレクションはここに展示されている。
下掲は深沢コレクションの代表的な十選とされたこけし。
コレクション中には作者不明の古作こけし群(下掲はその一部)もあって、研究資料としても貴重である。
〔深沢要の業績〕
深沢要の前にこけしを集める人は何人もいたが、作者(工人)についても興味を抱いて、環境、経歴、性格等まで可能な限り追求したのは深沢要が最初である。もちろん木地師の歴史や生活誌を記録した人はいたが、深沢要はこけしという作品と絡めて個々の作者(工人)の製作の背景にまで関心を及ぼした。したがって、深沢要以後のこけし研究は、作者である工人研究なしには議論できなくなった。多くの愛玩収集物が、個人の好き嫌い(個人的趣味)のレベルで議論されるのに対して、こけしはその魅力の根元を、工人の師弟関係に加えてその工人の生活史から生まれたであろう創造のモチーフにまで遡って議論できるようになったのは、深沢要の一つの遺産である。
工人からの聞書調査は当時としてはかなり周到精緻であり、後の〈こけし辞典〉などにおける調査スタート時の一つの元標となった。
〔深沢要の歌〕
秋ふかみこけしの旅をおもふ夜は 温きゆめ静かにつのる
みちのくは山国にして人静か ものみないとしわれまたゆかむ
みちのくは遥かなれども夢にまで こゝろの山路こころのこけし
この胴の淡くゆたけき花の絵を むかしの子らもめでて見にけむ
在りし日の彼を偲びつ見上あぐれば 番人小屋は光りてありき
しとしとと雨降る中を残雪の 蔵王へ登るこけし求めて
ひろくともせまき世間と語りつつ 湯客は我に栗をくれたり
山守に追はれてゆきし村人の 石碑残りて草おひ繁る
〔深沢要の句〕
花ごろも棚のこけしの静かかる
春陽あびこけし語らふなごみかな
厚着してこけしの部屋に灯をともす
〔著作〕
生前には刊行できず、死後深沢欣未亡人によって刊行された木版画詩集。「我いたづらあり、いまだ整わざるも、〈奥羽余情〉を遺作として刊行せよ」の遺言があった。
深沢要は鳴子こけしを愛玩し、そのこけしを〈奥羽余情〉の版画で「温顔静姿」と形容した。
- こけしの追求:昭和27年9月 昭森社 560部限定
〈こけしの追求〉は深澤要の死の5年後、昭和27年9月20日に昭森社より出版された。全部で560部、こ版15部(千五百円)、け版95部(千円)、し版450部(三百五十円)の三種が出版された。こ版はA5判、べにがら色の開き箱入りで表布は広本長子染めによる茶色のこけし模様。け版はB6判、箱はセピア色和紙に題箋紙を張り、表布は広本長子染めによる紺色のこけし模様。し版はB6判、洋紙箱にけ判と同じ題箋紙、表布は白絣布で種類は一様でない。
- 羨こけし:昭和37年10月 未来社 こけしの微笑、こけしの追求復刻合本
〔参考〕
- 木人子閑話(10)「こけしの追求」と粂松、永吉のこけし
- 東京こけし友の会:深沢要特集号〈こけし手帖14・15合併号〉(昭和32年5月)