小椋久四郎(おぐらきゅうしろう:1878~1933)
系統:木地山系
師匠:小椋徳右衛門
弟子:小椋久太郎,小椋富蔵,小椋留三
〔人物〕明治11年7月19日、秋田県雄勝郡皆瀬村川向二五六の木地業小椋徳右衛門・マサの四男に生まる。母マサは小椋勇右衛門の妹である。亀治、庄太郎、米蔵は兄、石蔵は弟である。姉カネは塗師小野寺梅太郎の嫁となった。木地は父徳右衛門について修業した。
明治20年祖父初右衛門(戸籍名徳太郎)88歳米寿祝いのとき、川連の蒔絵師を呼んだという。久四郎は明治33年6月22日にミサとの間に富蔵をもうけ、これを引き取った。
明治37年2月24日に父徳右衛門が亡くなり、長兄亀治が家督相続した。久四郎は翌38年分家となった。しかし亀治は明治41年北海道へ去り、他の兄弟いずれも結婚し分家すると木地山を去り川連方面に出てしまったので、久四郎は本家の亀治なき後の小椋家を守って木地山に留まることになった。
明治39年3月稲庭町の栗原久之助の二女キクと結婚、久太郎、シエノ、留三、ニキ、ミナエの二男三女を生んだ。
ミサとの間の富蔵は大正9年7月16日21歳で盲腸炎で亡くなったが、父と共に木地を挽き、久四郎こけしの木地下を挽いていたのを久太郎がおぼえている。
久四郎は息子たちと共に木地を挽いたが、綱取りは盲目の荒屋敷松蔵であった。茶櫃、木鉢、椀、菓子器、茶盆、茶卓、針差、煙草盆、玩具等を挽き、玩具は人力車、なめずり棒、鳴ゴマ、スリ鉢ゴマ、手ゴマ、綱ゴマ、追ゴマ等であった。これらの製品を須川、鷹の湯、小安、泥湯等の温泉に持って行き売った。
大正10年皆瀬村潅漑用水改良組合の所属の桁倉沼の管理人ともなった。このためか、従来の山神の陰の沢より今日の家まで移った。こけしを最初に卸したのは泥湯である。
大正13年8月、蒐集家の天江富弥は、須川温泉でもんぺ姿の娘が広げた筵の上に並べられた久四郎こけしに出会い、これを入手した。翌14年木地山を訪れた天江富弥は「盲目のお爺さんが16~7の少年と二人でこけしを作っていた」と記している。老人は荒屋敷松蔵であり少年は久太郎であるが、天江富弥の前で久太郎が描いていたとある。
昭和7年9月橘文策が訪問し、久四郎に会って二人挽きの写真を撮ったときの紀行文、「木地山紀行」〈 木形子談叢〉および「こけし紀行」〈こけしざんまい〉は久四郎の性格の一端を伝える貴重な文献であろう。このとき久四郎の家には2台の足踏みロクロがあり、二人挽き1台は土間に置かれていたという。
昭和8年2月3日大館へ木地商いに出かけている時に胃潰瘍のため没、行年56歳。
〔作品〕 現作品の大部分は〈こけし這子の話〉で紹介された大正末より8年死亡のときまでのわずか八年間しかなく、遺作は少ない。有名な横見梅前垂型と小寸物に見られる菊模様がある。菊模様のほうは一筆目で古鳴子のある群に見られるような写実的な枝菊を描き、ツン毛も描くが、この型は泰一郎や米吉の描法と共通点が多く、木地山系の源流的なものであろう。
前垂に横見梅の胴模様は、姉カネの夫で蒔絵師の小野寺梅太郎が考案し、久四郎や石蔵が描くようになったといわれている(この梅模様を梅鉢と呼ぶ人もいるが横見梅が正しい)。
下掲は、天江富弥が大正14年冬に木地山を訪れたときに入手したものと思われる。左端は首が胴に向けて嵌め込みとなっている珍しい形態。顔も古風であり、少し以前に作ったものを入手したものかも知れない。
〔右より 35.1cm、34.8cm(大正14年)(高橋五郎)〕 天江コレクション
〔右より 22.7cm、17.0cm(大正14年)(高橋五郎)〕
下掲鈴木蔵も正末昭初で、上掲の天江蔵とそれほど時期の離れていない作。尺1寸5分で見事な量感を感じさせる。鹿間時夫は天江蒐集品をふくめ、この時期までの作を「久四郎の縄文時代」と呼び、「泥臭くずんぐりと不調和」と評したが、その作品は野趣を残して生命観にあふれており、むしろ久四郎の本領を具現したものと言える。武井武雄はこの時期の作を「眉目の間もひろびろとして、昔々の鄙びた話を聞くような匂いに満ちている〈愛蔵図譜〉」と評した。〈愛蔵図譜〉掲載のこけしは昭和2年12月に天江富弥より入来のものという。
下掲河野蔵も旧蔵者は鈴木蔵と同じで武井武雄蒐集期と重なっているから製作時期はあまり変わらず昭和2~3年であろう。寸法が8寸なので描彩は自然体になっている。
下掲は昭和5年に当時神戸にいたしばたはじめによる頒布のもの。しばたはじめは「東北玩具普及会」を組織してこけしの頒布を行った。久四郎は8寸のものを俵に一杯取り寄せて頒布したという。鹿間時夫は、この時期ものを最盛期とし、「すらりとバランスとれ、うりざね顔に三白眼、精気みちて鬼気すらおぼえる。」とした。しかし一方で、このころから後期の弥生調の揺籃期が始まっているとも言える。
〔23.8cm(昭和5年)(鹿間時夫旧蔵)〕 柴田はじめ頒布
下掲は鹿間時夫が弥生調と表した時期の作であるが、それでも久四郎の独特な風韻は残している。
〔右より 15.2cm、24.5cm(昭和7年)(日本こけし館)〕 深沢コレクション
昭和7年以降になると久四郎の作は少なくなり、注文に応じては久太郎作を送ることもあった。この手の作を久太郎贋作時代と呼ぶこともあるが、贋作というよりは木地山こけしの注文に対して当時すでに木地山の中心と成りつつあった久太郎がその作品を送ったと言うことだろう。久四郎と久太郎の鑑別については〈鴻〉、みずき会の〈こけし研究ノート・2号〉などに詳しい。
小椋久四郎は、戦前から高い評価を得ていて木地山系のこけしの典型となった。武井武雄は「名匠の名を欲しいままにする事、久四郎の如きはあるまい〈こけし通信〉」と書き、鹿間時夫は「木地山のこけしは小椋久四郎にとどめをさす。かれのこけしこそ、こけしの第一級に位置するものである〈こけし・人・風土〉」、さらに名和好子蔵の尺一寸を前に「私はこけしの王様はと聞かれれば、躊躇なくこうした出来の久四郎をあげる〈こけし・人・風土〉」と書いた。
この久四郎に始まる横見梅前垂のこけしは、長男久太郎およびその子孫が継承し、さらに今日では木地山こけしのスタンダードとして小椋英二、三春文雄、海老澤妙美などがカバーしている。
〔系統〕木地山系
〔参考〕
- こけしの会:連載覚書(6)久四郎こけし〈木の花・6〉(昭和50年8月)