小椋豊之進

小椋豊之進(おぐらとよのしん:1875~1943)

系統:弥治郎系

師匠:佐藤周治郎/佐藤栄治(弥治郎)

弟子:

〔人物〕明治8年4月20日、横川の小椋栄三郎、さきの三男勘三郎として生まれた。長兄は永五郎、次兄は勘十郎、弟に栄治郎、蔵人がいた。戸籍名は勘三郎、通称豊之進といった。豊之進の姉里うは明治12年に遠刈田新地佐藤周治郎の妻となり、従兄の熊太郎は弥治郎の佐藤家へ養子に入って佐藤栄治と改名した。
豊之進は明治23年16歳で義兄の周治郎をたよって遠刈田新地へ行き一人挽きの技術を学んだ。明治25年には弥治郎の従兄栄治のもとへ行って明治28年21歳まで修業を続けた。その後、横川に帰って5年ほど父のもとで働いたが、このころになると横川の木地業もすっかり衰えたので、明治35年七ケ宿関の吉野ともに入夫婚姻して吉野勘三郎となり農業に転業した。しかし冬期のみ副業的にロクロに入り、玩具類を挽いて弥治郎の親類の家に持って行って却した。
大正14年火災にあってロクロを焼いてからは木地挽きもすっかりやめてしまった。後年白石の人に頼まれ、和紙に弥治郎系のこけし絵を描いたことがある。このこけし絵の一枚は植木昭夫が収蔵している。昭和18年没、69歳。こけし絵以外の作品は未確認。
小倉豊之進とする文献もあるが小椋豊之進が正しい。
 
〔作品〕豊之進(勘三郎)のこけしに関して残る資料は下掲のこけし絵だけである。50年前とあり、おそらく明治25年頃の栄治のもとで作ったこけしを描いたのだろう。完全に弥治郎風の作風である。関に移ってから冬期に作ったこけしも、弥治郎に卸していたというからこの絵とあまり変わらない弥治郎風のこけしを作っていたと思われる。
弥治郎の新山吉紀、新山真由美が、この絵をもとに吉野勘三郎型を作っている。

勘三郎のこけし絵(植木昭夫蔵)

〔伝統〕弥治郎系栄治系列

 

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