国分栄一(こくぶんえいいち:1932~2014)
系統:弥治郎系
師匠:鎌田文市
弟子:国分佳子/国分陞
〔人物〕 昭和7年7月19日、白石町清水小路の国分栄七の長男に生まれる。戸籍表記は國分榮一。祖父は福岡村沼の国分徳治、徳治の兄寅吉の息子が国分惣作である。惣作は新山栄五郎の弟子であった。国分陞は弟である。
栄七は次男であったため昭和初年に福岡村を出て白石に移った。職人を雇って鍬柄などを製造する仕事に就いたという。父栄七の妹がさくよであり、鎌田文市に嫁いだ。その縁で、栄一は国民学校を卒業すると、昭和24年18歳より白石の鎌田文市について木地を修業した。2年ほどの修業ののち独立、昭和27年頃、白石市清水小路にうつり、各種の木地を挽いた。しばらく他の木工所で働いたこともある。当初は新型こけしの木地下を挽いていたがやがて伝統こけしに傾倒していく。昭和46年鎌田文市よりこけしの描彩についても学び、文市の作風を継承した伝統こけしを作るようになった。 昭和46年秋からは佐藤勘内型の復元を始めて、勘内の古品を次々に復元した。 また、文市の古作の復元にも取り組んだ。 極めて熱心にこけしの知識を吸収しようという意欲があり、栄一の家には菅野新一を中心としたこけしに関する知識人が多く集い、談論風発の環境が生まれた。その中で栄一も豊富な知識を身につけることが出来た。 昭和63年頃長男の嫁佳子にこけしの描彩を教えた。晩年は眼疾に苦しみ、体調も崩して入退院を繰り返していたが、平成26年7月26日に亡くなった。行年83歳。
〔作品〕 彼のこけしの本領が発揮されたのは昭和40年代の後半からで、その契機は都築祐介の勧めによる佐藤勘内型の復元であった。昭和46年秋に植木昭夫蔵6寸弱のペッケを作り、さらに尺1寸6分の佐藤勘内の写しを作った。形態や筆法のみならず仕上げの木地の触感、染料の滲み具合、使い古した筆で勘内が描く速筆の筆致などまで実によく再現した。
〔右より 18.3cm(昭和51年)植木昭夫のペッケ復元、24.0cm(昭和52年頃)、22.3cm(昭和53年)神奈川県立博物館「こけし古名品展」記念(橋本正明)〕
昭和53年には小山信雄旧蔵の尺3寸の勘内を復元した。この尺3寸は勘内が昭和2年の正月に7本くらい作ったものの1本とされ、勘内の最盛期とされる逸品である。国分栄一はこの勘内の復元を念願しており、昭和52年暮れに自らこれを借り受けて持ち帰り、翌53年の正月に復元を30本ほど作った。原物を目の前に、本人が意欲を持って製作に臨んだだけあって、ほぼ完璧の完成度であった。この経緯については、〈木の花・16〉に詳しい。 この勘内型は昭和55年にこけしの会が主催した「こけし古作と写し展」でも出品され、展示されるとともに約50本が頒布された。
〔39.0cm(昭和54年)(橋本正明)〕 こけしの会「こけし古作と写し展」 小山信雄蔵の復元
佐藤伝内の弟子であった渡辺幸治郎の型を復元したことがあったが、よくその特徴をとらえて再現していた。
栄一は、こうした一連の勘内型復元の後、師匠文市の古型の復元も行い、優れた作品を多く残した。時に依頼されて飯坂の佐藤栄治型を作ったこともあった(市販はされなかったと思う)。
また鯖湖の渡辺角治のもとで職人をしていた勘内の弟子高野辰治郎の型を復元したこともあった。
〔 15.3cm(平成10年頃)(村野斗史雄)〕 高野辰治郎型
感性の優れた作者であり、目利き蒐集家の泣き所まできちんととらえた復元のできる工人であった。
〔系統〕 弥治郎系栄治系列。
〔参考〕
- 後藤昭信:「こけしは人なり」国分栄一の人とこけし〈こけし手帖・208〉(昭和53年7月)
- 後藤昭信:「こけしは人なり」国分栄一の人とこけし(その二)〈こけし手帖・210〉(昭和53年9月)