六郷満

六郷満(ろくごうみつる:1931~1999)

系統:遠刈田系

師匠:我妻吉助

弟子:六郷仁美

〔人物〕 昭和6年12月11日、宮城県白石市の公務員六郷直、きしの五男に生まれる。満の父、直は、若いころ教師をしていたが、満が出生した昭和6年には営林署の山巡査をしていた。母きしは昭和13年満が7歳の時に病死した。父は再婚したが、その父も昭和24年満が18歳の時に亡くなった。両親の間には六人の兄弟があったが、上から順々に三人は幼くして病死し、兄・姉・満の三人が残った。ほかに異母兄弟が一人いる。満は、昭和21年に名門の旧制白石中学校(現、白石高校)に入学したが、父の病気など諸般の事情から学業を続けるのは困難になり、二年生のときに中途退学した。引揚者援護局などで働らき、時間を見つけては好きな野球に打ち込んでいたが、同じ野球好きの中幡操に誘われて共栄木工場の職工として働くことになった。この木工所は、中幡操が昭和23年2月には蔵王のブナ材を利用して野球のバットや新型こけしを作るために設立した。工場長として我妻吉助が招聘されていて、六郷満は吉助より木地の技術を2年間学ぶことができた。兄弟弟子に鈴木昭二や我妻芳夫、菅野昭一がいた。
昭和25年に我妻吉助が白石を去って仙台に移ったので、そのあと六郷満が共栄木工場の工場長になった。半年ほど工場長を勤めたが、鈴木昭二より秋田県の大湯で働いてみないかと誘われて大湯に行き、奈良靖規の工場で働いたが、気候が合わず身体を壊したため昭和26年には仙台に出来た我妻吉助の工場に移った。
このあと白石市内の熱海木工場、佐藤基夫の木工場などいくつかの木工場を転々としたが、昭和32年には仁子と結婚、子供も生まれたので自立を考えるようになり、昭和37年32歳の時に白石市で独立した。丁度この年に二女仁美が生まれた。
師匠の我妻吉助のこけしをイメージしながらこけしの製作も始めたが、吉助からは佐藤松之進を目標にするように言われて、文献などを頼りに試行錯誤を繰り返した。やがて昭和48年頃から蒐集家より松之進の古作を借りて研究できるようになり、次々と松之進型の優品を発表するようになった。
平成7年より、娘の仁美にこけしの描彩を伝えた。

平成11年4月5日没、行年69歳。


六郷満

〔作品〕 師匠の我妻吉助から佐藤松之進を目標にするよう示唆されたが、当初は実物の松之進を見る機会が全くなかった。やがて蒐集家上西勇治の松之進を見る機会を得て、その写しを作る事で、松之進型の把握に努めた。昭和50年ころからは東京の蒐集家から松之進の秀作を順次借り出すことが出来るようになり、松之進のこけしを体系的に体得できるようになった。その結果六郷は、同じ松之進でもすべてが良いわけではなく、昭和一桁代以前のものがはるかに強い表現力を持ち、魅力に富んでいる事がわかったと言う。以後その時代の初期松之進の型を中心に製作を続けるようになった。
昭和52年3月には、久松保夫旧蔵の大正期松之進尺を仙台駅で六郷満に手渡し、夕刻写しを2本遠刈田の旅館で受け取ったという記載が〈木の花・14〉にある。
下掲の写真は、昭和50年以後に、在京の蒐集家の松之進の秀作に次々に挑戦していた時代の作例である。中央の30.4cmは、昭和55年正月に備後屋で開催された「こけし古作と写し展」のために久松保夫旧蔵の大正期松之進尺の写しを再度製作した時のものである。

〔右より 21.8cm、15.4cm、30.4cm(昭和55年)、13.8cm、25.7cm(昭和51年6月)(橋本正明)〕
〔右より 21.8cm、15.4cm、30.4cm(昭和54年)、13.8cm、25.7cm(昭和51年6月)(橋本正明)〕

松之進型の最良の継承者の一人であった。その作風は二女仁美に伝えられた。

系統〕 遠刈田系吉郎平系列

〔参考〕 

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