佐藤正一

佐藤正一(さとうしょういち:1905~1972)

系統:土湯系

師匠:斎藤太治郎

弟子:斎藤弘道/佐藤勇一

〔人物〕  明治38年3月30目、福島県信夫郡庭塚村の農業佐藤善四郎・米子の次男に生まれる。大正7年3月庭塚尋常小学校卒業。太治郎の次女のきみと結婚し、土湯の会津屋に勤務した。昭和5、6年ころ土湯に土産物店を開業、時々太治郎こけしを販売した。太治郎の晩年、三年間彼の木地挽を観察勉強、大変苦心して太治郎特有の描彩を物にしようと努力した。昭和16年自分の工場を開設し、木地挽を本業にするようになった。昭和17年の初作のころの物が残っている。当時太治郎の名声は並ぶ者もないほど有名で、そのこけしに多くの収集家が憧れて、競って求めていたので、正一はその二代目として遺鉢を継ぐべく努力を傾注した。
川口貫一郎発行の〈こけし〉誌で荻原素石によって作者として名前が紹介された。〈こけし・人・風土〉で写真紹介された。
昭和20年太治郎が亡くなった後は、もっぱら太治郎型を製作し、「二代目太治郎」の署名をしていた。昭和20年代古い工人が転業したり物故したりし、若い工人の育たない土湯こけしの不毛時代に健闘した彼の努力は十分評価してよい。昭和28年ころより本人名の署名をするようになり、30年より斎藤弘道と息子の勇一を弟子とした。昭和40年5月2日中風に倒れるまで、太治郎型こけしの継承者として、土湯のこけしを支え続けた。
昭和30年代は彼のこけし製作の全盛期である。病気になってからも弘道の木地に描いていたが、昭和47年2月18日、68歳にて没した。

佐藤正一
佐藤正一

〔作品〕 昭和16年より40年までの製作期間25年間はもっぱら太治郎型に終始し、本人が木地を挽いて描彩を行った。細心巧緻をきわめた楷書体のこけしは年代的変化は比較的少ない。
鹿間時夫は「目が比較的 大きく鼻細く白目大で瞳の両端尖がるので、太治郎の晩年作のようなにやけた表情はなく、むしろ怜悧で気品の出た表情であった。紫の波線は太く、太治郎の細い波線とは区別される。表情は弘道ほど太治郎に接近していない。太治郎型であって、本人の型を作り出し危なげなく安定していたし、弘道を養成した功績と共に土湯として不況時代健闘した彼の努力はもっと買われてよい。」と書いた。
下に掲載した写真の2本は鹿間時夫旧蔵、右端の戦前作は珍しい。左の昭和28年作も太治郎の比較的いい時代の作風を正確に写していて完成度の高いこけしである。

〔18.3cm(昭和17年2月)、24.3cm(昭和27年)(鹿間時夫)〕
〔18.3cm(昭和17年2月)、24.3cm(昭和28年10月)(鹿間時夫)〕

昭和28年ころより本人名の署名をするようになり、昭和30年より斎藤弘道と息子の勇一を弟子とした。40年5月2日中風に倒れるまで、彼のこけしは太治郎を継承した作として、高く評価された。
昭和31年ころまでが彼のこけし製作の全盛期であろう。昭和32年になると目じりがやや下がるようになる。

〔右より 22.1cm(昭和31年)、22.7cm(昭和32年)(高井佐寿)〕
〔右より 22.1cm(昭和31年)、22.7cm(昭和32年)(高井佐寿)〕

下掲の昭和34年になると目じりの下がり方はかなり顕著になる。当時の他の土湯工人も同じ傾向であり、昭和30年代後半の土湯には甘い新型風の表情が蔓延していた。

〔28.4cm(昭和34年11月)(橋本正明)〕
〔28.4cm(昭和34年11月)(橋本正明)〕

正一は、こけしのほかにダルマ等多少の木地玩具もつくった。

系統〕 土湯系

〔参考〕

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