佐藤英吉

佐藤英吉(さとうえいきち:1906~1996)

系統:南部系

師匠:佐藤文六/照井音治

弟子:佐藤忠雄

〔人物〕  明治39年10月10日、山形県最上郡及位村塩根川の大工佐藤鶴松の三男に生まれる。父鶴松は本業の大工の他に、桶屋、木挽き、炭焼き、木彫などやった人物で、及位の佐藤文六の工場で人夫頭を勤めたこともある。その縁で大正8年10月から三男英吉が文六に弟子入りして、木地を学んだ。
年期があけた昭和2年、たまたま花巻で働いていた佐藤善作(遠刈田佐藤善八の二男で一時英吉とともに文六の下いた)が、北海道に渡ることになり、その後任に請われて佐藤英吉が花巻に行くことになった。昭和2年7月2日に花巻に着き、石田雄治経営の南部商会に入った。ここの職長を務めていたのが照井音治である。
昭和6年26歳の時、花巻の小山田ぬいと結婚。昭和9年まで南部商会で働いた。この間、遠刈田の佐藤正吉、川連の佐藤正治とも共に働いた。ただ、南部商会は賃金の支払いが必ずしも良くなかったので、職人たちは不満を持っていて、長く居付くものは少なかった。
佐藤英吉は、先に辞めて北海道へ渡っていた佐藤正治の誘いもあり、昭和9年に函館に移ってベニヤ販売・家具製造の宇野春吉方の職人となり、2年ほど働いた。その後、木型屋高橋吉助の工場を借りて、家庭用張り物機のローラーを挽く仕事をした。この家庭用張り物機は函館の小学校教員某が発明し、函館の呉服問屋塚本が資本を出して設立した成功合名会社で企業化したものであった。高橋吉助工場はその専属であり、この張り物機も全国的に販売されて評判が高かったが、発明者と出資者の折り合いが悪く、1年ほどで閉鎖となった。
丁度その頃、登別の漆原木地細工工場から誘いがあったので、登別に移った。ここの職長は白川久蔵が努めていた。久蔵は中ノ沢にいた佐藤正吉(後の大原正吉)にも声をかけていたが、昭和13年8月に正吉がやってきて漆原木地細工工場も安定してきたので、佐藤英吉は妻ぬいの実家のある花巻に戻ることにした。これは妻の希望と、花巻の君塚木工所(南部商会の後身)から強い要請があったことによる。昭和14年2月2日に花巻に戻って君塚木工所に入ったが、職長の照井音治がその年の4月に急死したため、英吉が替って職長となった。この年、三男忠雄が生まれた。ここでは女工100人ほどを使って軍需品を作り、またパピリオクリームの蓋などを挽いた。
戦後も君塚木工所で働き、昭和30年には三男忠雄もこの木工所に入って働くようになった。しかしその年の5月花巻市四日市町の鉄工所経営瀬川幸三から、新型こけしの工場を建てるから引き受けないかという誘いがあったので、君塚木工所を辞して瀬川の工場に移り、その木工主任として働くことになった。ただし三男忠雄は引き続き君塚木工所に残ることにした。その後、瀬川工場では木工部門が盛んになるにつれて本業の鉄工所との兼業経営が困難になり、昭和34年に木工部門の分離独立が行われたが、その機会に英吉は瀬川工場を退職し、花巻市相生町で独立した。昭和48年には花巻市中根子字門前に自宅を移した。
こけしも継続的に製作したが、昭和46年頃から白内障を患い、以後はあまり作らなかった。
平成8年3月16日没、行年91歳。

佐藤英吉  昭和42年
佐藤英吉  昭和42年7月 花巻市相生町

〔作品〕 いつ頃からこけしを作り始めたかはっきりしない。及位の文六のもとでこけしを作った記録は今のところない。花巻の南部商会、登別の漆原木地細工工場時代に佐藤正吉(大原正吉)とともに仕事をしており、その影響で初期の昭和15年頃の英吉は正吉のものが見本になったと言われている。
戦後は瀬川工場をやめる頃からこけしを作り始めたと言われている。戦後初期の〈こけしガイド〉所載のものは、完全な遠刈田様式であった。国府田恵一蔵の昭和34年頃のこけしも戦後の初期の作風に近いであろう。一側目で佐藤正吉を思わせるこけしである。
照井音治の型も、ほぼ同じころから作り始めたらしい。音治と同じ南部商会・君塚木工所で働いていたことから、土橋慶三が勧めたようである。その結果、照井音治の大ぶりなフォルムの独特な型は、音治-英吉-忠雄と継承され、今日にまで伝わるようになった。

〔右より 24.0cm(昭和35年)、37.9cm(昭和45年)(高井佐寿)〕 照井音治型
〔右より 24.0cm(昭和35年)、37.9cm(昭和45年)(高井佐寿)〕 照井音治型

系統〕木地の系統は肘折系文六系列、こけしは照井音治からの継承。頭のくらくら動く南部系の構造に描彩は遠刈田様式。〈こけし辞典〉では「南部系化した遠刈田系」、あるいは雑系と記述している。今日では頭のくらくら動く形態と、産地の文化圏から南部系に分類する場合が多い。

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