佐藤喜一

佐藤喜一(さとうきいち:1894~1976)

系統:弥治郎系

師匠:佐藤栄治

弟子:

〔人物〕  明治27年8月24日、福島県信夫郡飯坂町十綱町八幡屋佐藤栄治・クラの長男に生まれる。父栄治について木地を修業し、明治42年16歳のころからこけしを作り始めたという。喜一名儀のこけし写真を最初に紹介したのは、昭和3年に栄治が没してから10年余り経て橘文策が刊行した〈木形子〉である。それ以前の作は大部分栄治名儀で収集界に渡っており、現在でも誤認されている場合が多い。昭和12年ころ、飯坂町花岡町へ転居し木地業を続けた。弟子には佐藤七太郎、板垣義則、武田武見が知られている。七太郎と義則は栄治 の生存時代から八幡屋で修業しており、〈こけしの追求〉の註では栄治の弟子として紹介されている。戦後も、こけし製作を続けていたが、昭和35年ころから製作敷が減少し入手困難のこけしとなった。昭和40年5月には、飯坂を去って原ノ町市大町2-48に転居し、以後こけしの製作はほとんど行なっていない。白石の鎌田文市の木地に描彩を施したものが、ごく少数知られる。
昭和51年2月5日没、行年83歳。


佐藤喜一

佐藤喜一 昭和38年5月 撮影:柴田長吉郎
佐藤喜一 昭和38年5月 撮影:柴田長吉郎

〔作品〕 昭和初年までの喜一作は全て佐藤栄治名義で蒐集家の手に渡っている。したがって栄治名義のこけしのうち、どのこけしが栄治で、どのこけしが喜一であるかを判別するのは一つの課題でなった。〈こけし研究ノート・Ⅱ-NO.3〉では栄治と喜一の鑑別を下記の様に議論しており、その鑑別特徴点は概ね妥当であるが、また例外もある。

佐藤栄治:眼の湾曲度が少い。鼻が大きく割れ、三角形に近い形状である。唇の両端が長く、上へはねる(特に右端が上る)。鬢が上下端とも同じ太さで湾曲する。
佐藤喜一:眼と眉の曲線が並行でなく、特に眉の方が強く湾曲している。眼と眼の間隔が狭い。鼻の上端は一線になっている。鬢の下端が細い。
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一方で〈木の花・31〉連載覚書のように、いわゆる佐藤栄治のうち〈こけし這子の話〉掲載の大寸など一部のもの以外は全て、喜一の作とする見解もある。

下掲の写真は、加山道之助旧蔵の佐藤栄治名義のこけしである。加山がそのコレクションを関東大震災で全て失ったとき、その親友で福島民報の記者をしていた富士崎放江が加山を慰めるために贈ったものという。大正10年頃のもので二尺の大寸(正確には二尺三寸という)で、後に稲垣武雄に譲られた。さて、このこけしは栄治であろうか。
〈こけし研究ノート・Ⅱ-NO.3〉の鑑別に従うと、鼻は栄治、口は喜一となる。〈木の花・31〉の鑑別ではA型で栄治としてある。

加山道之助から稲垣武雄に贈られた二尺の飯坂古作。 
加山道之助から稲垣武雄に贈られた二尺の飯坂古作(大正10年作)。

下掲写真は、昭和6年作の佐藤喜一、この面描をみると加山旧蔵に限りなく近い。ただ鼻の描法は加山旧蔵は三角形なのに対し、こちらは上端が一本線になっている。このように鑑別特徴点には、いくつかの例外が存在している。加山旧蔵の栄治名義の鑑別は簡単ではない。
昭和10年以前の喜一作には、栄治の作風を継ぐ飯坂こけしとして情味が残されていた。

〔22.2cm(昭和6年)(橋本正明)〕
〔22.2cm(昭和6年)(橋本正明)〕

下掲5本は深沢コレクションの喜一。中央の8寸が昭和10年頃、他は昭和16年頃の作であろう。昭和15年以降になると眉と眼の彎曲も大きくなり、描線も太くなる。

〔 右より 17.2cm、18.7cm(昭和16年頃)、24.3cm(昭和13年頃)、17.5cm、9.1cm(昭和16年頃)(日本こけし館)〕 深沢コレクション
〔右より 17.2cm、18.7cm(昭和16年頃)、24.3cm(昭和10年頃)、17.5cm、9.1cm(昭和16年頃)(日本こけし館)〕 深沢コレクション


〔 17.3cm(昭和17年)(橋本正明)〕

〈こけし研究ノート・Ⅱ-NO.3〉では、下図のように喜一の年代変化の特徴点を整理している。

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戦後は次第に描彩が丁寧かつ技巧的になって、描筆の柔軟性は薄れていった。作例は〈こけしガイド〉、三彩社〈こけし〉、〈こけし事典〉に掲載されている。
晩年は、鎌田文市に木地を依頼し、描彩のみ行なっていたが、筆を重ねて描線を整えるなどしていたので本来の持ち味は失われていた。
なお、こけしの会は〈木の花・31〉で、従来栄治とされていたものの何本かは喜一であるという新しい見解を提起している。(⇒ 佐藤栄治

系統〕 弥治郎系

〔参考〕

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