佐藤誠次(さとうせいじ:1902~1962)
系統:肘折系
師匠:佐藤文六
弟子:
〔人物〕 明治35年5月2日、遠刈田新地の佐藤文治、はるの三男に生まれた。佐藤丑蔵は長兄、三次は次兄であり、佐藤文六は叔父にあたる。大正2年13歳のとき、及位の叔父文六のもとへ行って、雑用を手伝ったが、このときにはまだ木地は挽けなかった。一年ほどして遠刈田へ帰り、木地を修業したという。特別の師匠名は確認されていないが、おそらく文平、茂吉などに指導をうけたのであろう。
大正7年及位に移り、文六工場でしばらく働いた後、半年ほど肘折の尾形工場の職人をしたといわれる。肘折から及位へ帰った後は、及位に定着して、文六と行動を共にした。〈こけしの微笑〉により作者として名前が紹介され、〈こけしと作者〉にこけしの写真が掲載された。この時代には落合滝の工場で文六とともに大物挽きに従事しており、収集家の要請によりこけしを作ったが、製作数は少ない。
深沢要は、昭和13年10月に及位を訪れ、文六と誠次に会っている。〈こけしの追求〉の「動く産地」には「弟子の佐藤誠次は真面目な青年で、こけしにもその気風が出ているように思う。私は静にかれの今後を見守っていたい。」と書いた。
戦後は駅前の工場で、文六、甚吉、文吉とともに茶櫃類を中心に挽いた。蒐集界の活動再開とともに再びこけしも製作した。地味な性格で、無口、純情な工人として知られた。
昭和37年8月25日及位にて没、行年61歳。
従来大部分の文献では誠治という表記が用いられていたが、戸籍表記は誠次である。
〔作品〕戦前より多く作らず、現存の作品は同時代の工人と比較して非常に少ない。戦前は特に入手困難で知られ、やむなく文六の木地に描彩したもの、文六の代作などもある。
最初に作品を紹介した〈こけしと作者〉掲載のこけしは製作年代は昭和13年ころと思われるが、木地は文六が挽いたものである。あるいは胴の重ね菊も文六の筆かもしれない。
下掲は深沢コレクション蔵中のこけしで、昭和13年10月に及位を訪れた時に入手したもの。これも胴のロクロ線は文六風であり、〈こけしと作者〉と同様に佐藤文六木地と思われる。
〔 21.2cm(昭和13年10月)(日本こけし館)〕 深沢コレクション
本人が挽いたものは、下掲写真の左端のように、頭がやや角ばっており、ロクロ線も太く二、三本で簡潔である。胴模様には重ね菊のほか旭菊を好んで描いた。
個性の強い佐藤文六や佐藤丑蔵の間にあって、黙々と仕事に徹した工人であった。作品もそうした工人に相応しく、静謐でありながら底力を感じさせるものだった。
〔右より 12.0cm(昭和15年頃)(鈴木康郎)、(19.7cm)(昭和15年頃)(橋本正明)〕
戦後の作は、一重瞼に変わり、表情は幾分淡白になったが、ケレン味のない穏やかなこけしであった。
〔系統〕肘折系文六系列
〔参考〕