後藤善松(ごとうぜんまつ:1916~1962)
系統:鳴子系
師匠:岡崎斎
弟子:
〔人物〕大正5年11月1日、宮城県玉造郡鳴子湯元の後藤徳治、さだよの長男に生まれた。鳴子青年学校を4年で修了後、昭和7年17歳より岡崎斉の弟子となり、6年間木地の指導を受けた。特に兄弟子本間留五郎の指導を受けたという。昭和12年より14年まで北海道上戸別・米沢・仙台・鎌先・松島・陸前赤倉において木地あるいは他の仕事に就いて働いた。昭和15年正月健康を害して鳴子に戻り、玩具などを作るようになった。
斉のもとで修業した当時は挽き方専門で描彩は習わなかったが、独立してから見取りて描彩を始めた。影響をうけたのは高橋盛、大沼竹雄等からである。
〈こけしと作者〉により紹介され、〈鴻・第5号〉で頒布された。その後は酒を好んであまり仕事はしなかったという。
昭和37年5月10日東京にて没した。行年47歳。
〔作品〕下掲2本は橘文策旧蔵で、おそらく善松が北海道に渡る直前の作と思われる。
一時この種の作が横手の子野日幸助(秋田時代の高橋盛の弟子)の手によるものではないか言われたことがある。
〔右より 15.5cm、20.6cm(昭和12年5月)(国府田恵一)〕橘文策旧蔵
昭和14年頃の作は胴の太い肩の高いこけしで、〈こけしと作者〉〈古計志加々美〉に紹介されている。
昭和15年、再開後の作は眼点の比較的大きいこけしてあったが、筆はよく走っていた。この時期の作例は〈鴻・第5号〉に掲載されている。肩は高く、高橋盛式の大きな菊を二つ描き、花弁の描法にくせがある。
戦後はほとんど作らず、たまに材料があるときにはごく小寸の豆こけしを挽いた。1cmほどの極小豆こけしは昭和30年ころ作られ、3cmほどの作は昭和37年ころたつみで多量に頒けられた。
〔 27.6cm(昭和15年頃)(西田記念館)〕
〔右より 27.3cm、16.1cm(昭和15年頃)(日本こけし館)〕 深沢コレクション
〔系統〕鳴子系
〔参考〕