佐藤伝(さとうつたえ:1906~1980)
系統:弥治郎系
師匠:佐藤五月/渡辺求/本田鶴松
弟子:佐藤良二
〔人物〕 明治39年3月26日宮城県福岡村大字八宮字彌治郎の木地業佐藤伝内・てうの二男に生まれる。戸籍表記は傳。長兄は伝吉、弟に伝喜、伝伍、敏、巳歳、新、雪弥がいる。敏は二歳で夭折した。
大正9年福岡尋常小学校を卒業後、農業等に従事したが、17歳頃から木地挽きの技術を学んだ。当時父の伝内は北海道の定山渓で働いていたので、叔父の佐藤五月や、父の弟子の渡辺求や本田鶴松について修業をした。
昭和初年ころに弥治郎を出て折木鉱泉の佐藤誠のもとで働き、また東京本所の木工所でも2年ほど働いたのち、昭和4年7月に白川久蔵を頼って北海道の定山渓に移った。白川久蔵は青根の佐藤久吉の三男、父伝内の従兄弟にあたる。伝内が定山渓に招き、ここで白川アサと結婚して、婿養子となり白川姓に変わった。伝内は大正12年頃弥治郎へ戻っていた。
しかし、伝は定山渓に長くは定着せず、その年の10月に屈斜路湖畔にいた大野栄治の作業場に移ってこけし等を挽いたが、翌昭和5年4月には層雲峡、昭和6年夏には温根湯、翌7年6月には弟子屈へと転居を繰り返し、ようやく弟子屈に定着した。この期間、各地でこけしは作ったという。弟子屈ではこけしはあまり売れず、菓子容器や茶筒が主な製品であった。昭和10年頃に弟の伝伍が来て職人として働き、このころこけしも若干作った。
昭和12年頃に釧路市外鳥取へ移り、約8年余軍需品の信管や机の脚などを挽いた。昭和15年12月に深沢要が鳥取に佐藤伝を訪ねて、その聞き書きを〈こけしの追求〉に載せている。
昭和20年7月釧路市外鳥取の作業場は空襲にあい、再び弟子屈に戻った。
戦後はほとんどこけし製作を中断していたが、昭和32年秋、高松の秋田亮に強く勧められて本格的にこけし製作を再開した。
再開以降、製作数は多くはないが間断なく製作を続け、昭和55年10月26日、心筋梗塞のため75歳で亡くなった。
昭和32年のこけし製作再開時には長男の良二がともにこけしの製作を始めたが、良二は25歳で早世ししてしまったので後継者はいない。
〔作品〕 弥治郎から出る以前のこけしは確認されていない。現存するものは弟子屈時代以降と思われる。ただし、弟子屈時代でも弟の伝伍が同じ作業場で働いており、伝伍のものが伝の作と混同されている場合も多い。
初出の文献は〈こけしと作者〉であり、橘文策は「さすがに伝喜、伝伍の長兄の貫録」と書いたが、実は伝伍の作であった。伝への注文に伝伍作を送っていたことも多かったようである。
下に掲げる写真は深沢要が、釧路市外鳥取に佐藤伝を訪ねて入手したもの。
〈古計志加々美〉にも昭和15年12月の作が掲載されているが、おそらくこれも深沢入手の一本であろう。
〔18.2cm(昭和15年)(深沢コレクション)〕〈こけしの追求〉掲載のこけし
〔右より 30.3cm、24.8cm(昭和15年頃)(西田記念館)〕 西田コレクション
戦後20年代にも僅かながら作られたかもしれない。20年代といわれるものもあるが正確な製作年代は分からない。
昭和32年秋田亮の紹介による再開当時のものは、ある程度残っている。さすがに弥治郎の正調を伝えたこけしであったが、色調やや淡く生命力が希薄になった感はあった。むしろ晩年になった昭和50年頃に、筆が枯れて、幼女のあどけなさが表れた佳品が多いようである。
〔右より 15.1cm(昭和50年1月)、25.2cm(昭和35年頃)(橋本正明)〕
〔伝統〕 弥治郎系栄治系列
白石の木村敦が佐藤伝の型を継承している。
〔参考〕