佐藤文作(さとうぶんさく:1897~1928)
系統:遠刈田系
師匠:佐藤文平
弟子:
〔人物〕明治30年10月10日、宮城県柴田郡川崎村青根温泉の木地業佐藤文平、つねの長男として生
まれた。父の文平は遠刈田の佐藤茂吉の弟、及位に移った佐藤文六の兄にあたる。丹野倉治の工場の職人となって、青根に移った。青根で佐藤七蔵の娘つねと結婚し、婿養子となった。義父となった佐藤七蔵は遠刈田の佐藤亥之松五男、明治18年に周治郎、久吉、茂吉、寅治等と共に田代寅之助に一人挽きを学んだ工人で、当時は青根の小原仁平の工場で職人をしていた。
明治38年に、父の文平や弟文助と共に青根を去り、遠刈田新地に移った。
木地は明治42年より父の佐藤文平について修業した。その後も自宅で足踏みロクロにより営業した。大正末年に肘折の尾形政治の木工所で働いたことがある。昭和元年には弟文助と及位の佐藤文六の工場で職人をしたがやがて帰郷し、昭和3年6月21日遠刈田で死亡した。行年32歳であった。
〔作品〕昭和16年7月に玩具蒐集家の山田猷人が〈竹とんぼ・1〉で発表したものが一本確認されている。文助が文作の家から捜し出して、蒐集家の山田猷人に譲ったものという。大正初期の作であるらしい。大阪こけし教室の〈教室だより・35〉で米浪庄弌によって写真紹介された。
下掲がその写真であるが、頭は角ばり大きく肩が張っている。箕輪新一は「表情はやや甘く筆致は細いが鋭く情味がある。形は直助に近く、描彩は松之進の影響が強いように思われる。」という。大正初期の達刈田こけしとして重要な資料である。
〔伝統〕遠刈田系吉郎平系列
〔参考〕