遊佐民之助

遊佐民之助(ゆさたみのすけ:1889~1953)

系統:鳴子系

師匠:高野幸八/鈴木庸吉

弟子:

〔人物〕  明治22年2月5日、宮城県加美郡大平の遊佐健治・きんの長男に生まる。父健治は岩出山の出身、母きんは文久元年6月21日生まれで、鳴子の塗師高野幸作(幸八の父)の次女である。明治27年6歳のときに父と死別した。明治37年16歳で鳴子へ行き叔父高野幸八について23歳まで修業した。兄弟子には鈴木庸吉がおり、庸吉の指導も受けた。明治44年年期があけると、家族を鳴子へ呼び大正2年に湯元(小花食堂の裏)で独立開業した。こけしやその他の木地製品を作り鳴子の各商店に卸した。その後、湯沢・川連などを歩き、大正6年ころより大正12年ころまで仙台小田原町のサクラ商会で数回にわたり働いた。一説では仙台支倉町の福々商会で働いたともいわれている。大正12年ころ秋田県大湯へ行き、小松五平を助け1年間ほど働いた。昭和9年ころ鳴子の仲町へ転居し、岡崎斉吉の工場で大物製作に従事した。昭和15年から18年にかけて収集家の依頼で小数こけしを作った。
戦後はしばらく休業していたが、昭和26、7年に復活し比較的多くこけしを作った。
昭和28年12月1日鳴子において没、行年64歳。身体は決して丈夫なほうではなかった。

遊佐民之助 撮影:水谷泰永

〔作品〕  大物製作専門になる以前の作(第一期)と、戦前の復活作(第二期)、戦後の復活作(第三期)の三回のこけし製作時期がある。第一期の遺品は極めて少ない。〈日本土俗玩具集・二〉の図版、〈こけし 美と系譜〉に大正期の作が紹介されている。〈日本土俗玩具集〉のころはまだ工人名にまで興味のなかった時代であり、産地名さえ不正確であった。
     


〔 24.2cm(大正初期)(柴田長吉郎旧蔵)〕 第一期


〔 23.0cm(大正初期)(日本こけし館)〕 名和コレクション 第一期

〈こけし 美と系譜〉は米浪庄弌旧蔵品で一筆目の雅趣に富んだ逸品である。


〔 21.5cm(大正初期)(米浪庄弌旧蔵)〕 第一期 〈こけし 美と系譜〉掲載


〔 19.4cm (昭和初期)(高橋五郎)〕 天江コレクション 第一期

民之助が工人であることが判明したのは第二期の作、すなわち戦前復活作が確認された時であった。第二期の初作は深沢要の尽力により富田の「おもちゃ祭」に出品され、これと同時に第一期の旧作も判明した。


〔 18.2cm、24.5cm、12.4cm(昭和16年)(日本こけし館)〕 深沢コレクション 第二期


〔右より 17.9cm、18.1cm(昭和18年1月)(鹿間時夫旧蔵)〕 第二期

第三期の作は第二期の作と比べてあまり変化していない。八寸以上のものが多く、必ず眼点が入っている。民之助の遺品の大部分は第三期の作である。


〔 25.7cm (昭和28年)(高井佐寿)〕 第三期

〔伝統〕 鳴子系幸八系列  松田忠雄、松田大弘、熊谷正らが遊佐民之助型を継承している。

 

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