佐藤文助(さとうぶんすけ:1901~1977)
系統:遠刈田系
師匠:佐藤文平
弟子:佐藤文男/佐藤富雄/佐藤富治海
〔人物〕 明治34年11月23日、佐藤文平・つねの次男として青根温泉に生まる。父文平は遠刈田の佐藤文吉の二男で、佐藤七蔵の娘つね(佐藤周右衛門の姪)と結婚して入り婿となっていたが、当時は青根の丹野倉治や小原仁平の工場で木地挽きをしていた。明治38年に文平は文助や兄文作を連れて遠刈田に戻った。小学校4年生のころからロクロに親しみ、こけし等を作った。大正2年遠刈田尋常小学校を卒業、大正3年父文平について木地を正式に修業した。大正7年ころには、玩具ならなんでも挽けるようになっていた。その後、横木の難物まで完全に挽けるようになり、大正11年より大正13年まで及位の叔父文六の所で職人として働いた。大正14年より花巻で半年、再び及位で数ヵ月職人をした。昭和3年には、佐藤孝之助の世話で盛岡の杉土手にあった外川某が経営していた柾屋の木地工場で働き、昭和4年には北海道の函館へ渡った。昭和5年に新地に戻り、遠刈田の川べりに水力利用の木地工場を建てて独立開業した。昭和14年丑蔵の長男文男が弟子入りした。橘文策により〈木形子〉で作者として紹介された。昭和15年に東北振興電力会社が水利権を買収したため、遠刈田温泉に工場と自宅を新築した。昭和16年長男富雄が木地の修業を始めた。昭和20年5月から終戦まで、佐藤円吉、高橋林平とともに白石の航空機部分品会社で軍需品を挽いた。昭和22年には次男富治海が木地の修業を始めた。戦後も伝続こけしや玩具、横木の木地製品を作り続け、第2次こけしブームのときは佐藤丑蔵と文助で遠刈田の人気を二分した。酒を好み、寡黙でとっつきにくい性格であったが、職人気質の強い魅力的な工人だった。 昭和52年5月8日没、行年77歳。
〔作品〕昭和12年頃より少しづつこけし製作を再開したが、それ以前の作は確認されていない。本格的な復活は昭和14年頃からである。下掲左端の昭和13年作は確認される極初期の作例である。昭和13、14年の作は表情もきりりとして緊張感のある作風であった。
〔右より 20.0cm、19.4cm(昭和14年)、18.8cm(昭和13年)(深沢コレクション)〕
下掲の西田コレクションの6寸も文助の最も良い味が出た作品で、戦後佐藤文男がこの型の復元を行った。
〔18.8cm(昭和14年)(西田記念館) 胴底に三十九才の墨書あり
戦後も遠刈田の重要工人としてこけし製作を続けた。晩年の作は顔を小ぶりに描き、また眉等をギザギザに描くなど戦前の作風とはかなり離れたものとなった。
〔系統〕 遠刈田系吉郎平系列