佐藤正廣(さとうまさひろ:1938~)
系統:遠刈田系
師匠:我妻吉助/大藤仲四郎
弟子:佐藤康広/早坂政弘/中信一
〔人物〕 昭和13年7月27日、樺太豊原市の農業佐藤廣助、まつの二男(八人兄弟の末子)に生まれる。終戦により一家は引き揚げ、宮城県宮城町に居を定める。昭和30年宮城町大倉中学校を卒業後、我妻吉助について木地を修業した。
昭和34年より36年まで日光の大藤仲四郎についてさらに修業を重ねた。従って、木地挽きの技術、カンナの切れは一流である。
昭和37年に我妻吉助のもとに戻ったが、吉助が設立したみちのく工芸製作所は資金面で失敗して倒産、吉助は今野幹夫とともに東七番町の大賀貞治(大賀敏明の父)の工房を間借りして木地業を続けた。大賀貞治は元木工職人で魚箱や轆轤仕事、こけし材の製材などをしており、みちのく工芸の営業中は、そこで材木製材の職工として働いていた人物であるが、自宅にも工房を持っていた。一方佐藤正廣は、昭和38年みちのく工芸倒産後、大賀貞治の工房の道路向かいにあたる東八番町の借家を佐藤という地主から借りて独立、借家の自宅隣に工房となる建屋も借りて木地業を続けた。この頃よりこけしを製作している。佐藤正廣の勧めで、二、三年後に今野幹夫も大賀の工房から正廣の隣の借家に移り開業した。当時はモーターが高価だったため、今野幹夫は正廣が導入していた動力(モーターと200ボルトの工業用電力契約)のシャフトから工房の壁に穴を開けてベルトを引き、動力の提供を受けていたという。
佐藤正廣は、主として石原日出男の創作こけしの木地下を挽いていたが、吉助からの流れをくむ松之進風のこけしも製作した。昭和41年〈こけし 美と系譜〉で写真紹介された。昭和43年宮城郡宮城町芋沢大竹新田下に移り、ここを製作の本拠地とした。
昭和51年に早坂政弘、中信一が弟子入りした。
石原日出男の創作こけしの木地は、日出男が平成11年に亡くなるまで正廣が挽いていた。
平成21年より、二男康広が本格的に木地の修業を始めてこけしにも取り組むようになった。現在は同地に開設した仙台木地製作所で、二男康広とともに、こけしおよび木地製品を製作している。
〔作品〕 〈こけし 美と系譜〉に紹介されたこけしは鹿間時夫旧蔵の昭和39年1月作でほぼ初作に近い、〈こけし辞典〉に再掲された。松之進の剛直さを表現した鋭角的な表情の作品であった。
昭和42年、鹿間時夫の依頼により磯谷直行の復元作を資料として製作した。直行の特徴を極めてよく再現した佳作であった。ただこれはあくまでも資料として製作したものであった。
〔27.3cm(昭和42年)(橋本正明)〕磯谷直行型 鹿間時夫の依頼による復元
佐藤正廣の本分は、我妻吉助より伝承した遠刈田の吉郎平系列の作風であり、甘さに流れない硬質の情味にある。その作風は小寸の作り付けにも十分現れている。
下掲写真の尺は、大振りの頭に、張りのある面描の作品で、最盛期の松之進を髣髴とさせる。
下掲は昭和4年武井武雄の注文で磯谷直行が製作したこけしの様式を写したもの。
〔24.7cm(平成28年6月)(橋本正明)〕 磯谷直行様式
正廣自身も遠刈田を中心にコケシの古品を集めており、非常に熱心に古作の研究を行っている。
また、日光で修業した木地の技術を発揮した木地製品は見事であり、杯、盆、蓋物、茶道具、百万塔など魅力ある製品を作る。
作品は商店にはほとんど出さず、注文により製作を行っている。
〔系統〕 遠刈田系吉郎平系列
後継者に二男の佐藤康広がいる。
〔参考〕