佐藤護(さとうまもる:1903~1979)
系統:遠刈田系
師匠:佐藤寅治
弟子:佐藤英太郎/佐藤栄一/佐藤寛次/佐藤勝洋/村上玉次郎
〔人物〕 明治36年6月1日遠刈田新地の木地業佐藤寅治の三男として生まれる。周治郎・直治(小原)・直助は父寅治の兄弟であり、護の伯父、叔父にあたる。大正4年小学校卒業後、正式に父寅治について木地を学んだ。大正5年父寅治が宮城県黒川郡嘉太神に木地の講師で行った時には、護もともに嘉太神に赴き、ここで修業を続けた。寅治が挽いた製品は主に盆、菓子器、玩具でこけしも作ったので、護もここでこけしを始めて作ったという。
大正8年遠刈田新地に戻り、自宅で木地業を続けた。大正10年秋遠刈田温泉に北岡木工所が開所したので、寅治はじめ多くの新地の工人たちとともに北岡木工所で働くことになった。父寅治はその後北岡木工所をやめて、昭和12年2月に亡くなった。護は昭和12年支那事変で出征、14年に帰還、以後鉱山の工作部に勤めた。昭和16年佐藤好秋の作業所で木地挽きを再開、〈鴻・13〉でこけし作者として紹介された。
戦後は一時北岡木工所で働き、村上玉次郎などの弟子を養成した。昭和24年からは新地の自分の家に作業場を作り、木地製品、こけしなどを作るようになった。長男栄一、次男寛次、三男勝洋はそれぞれ護から木地技術を学んだ。また従兄弟秀一(直助の長男)は若くして戦死したので、その長男英太郎に木地を教えた。昭和40年には三越本店で実演をするなど蒐集界にも協力的であった。
昭和54年8月21日没、77歳。戦後の遠刈田こけしを支え若い世代につないだ功労者の一人である。
〔作品〕〈鴻〉で紹介され、頒布されたこけしは1寸から1尺までで、尺が1円30銭、8寸90銭、最小の1寸が20銭と7種類の寸法であった。写真紹介された2本はおそらく7寸くらいのものであろう。この時代は頭部がやや長めで、肩のこけたものを作っていた。目が切れ長で特徴がある。
下掲の鈴木蔵も鴻頒布と同時期の作と思われる。
戦後のこけしは、遠刈田の平均的な作風であるが、頭部は周治郎系列の角頭になっていた。昭和33年に英太郎が弟子となって木地を学んだため、英太郎の祖父直助の型も作るようになった。頭が大きな破調の直助型であったが、独特の味わいを示していた。
鹿間時夫は〈こけし 美と系譜〉に直助型を掲載し「護のは昭和39年作、直助の甥に当たるが、元来グロ味の持ち味の人で、直助を意識した作はグロ甘のミックスになっている」と評した。護は時として破調破格のこけしを作ったが、それは決してグロ味というものではないように見える。性格はおとなしく、静かな工人であった。
〔右より 31.2cm(昭和35年)、18.4cm(昭和37年)、24.8cm(昭和39年)直助型(橋本正明)〕
〔伝統〕 遠刈田系周治郎系列