柴崎丑次郎(しばさきうしじろう:1888~1971)
系統:鳴子系
師匠:高橋勘治
弟子:
〔人物〕 明治21年12月13日、山形県北村山郡高橋(尾花沢の北東)に生まる。農業柴崎又蔵・つねの末子。松田初見は姉くのの息子で甥に当たり、幸八の弟子となった柴崎多人太は姉いしよの息子である。中鉢君雄は息子又吉の嫁さつきの従兄弟に当たる。
明治25年鳴子へ移住、明治35年15歳で勘治の弟子となった。3年間椀を主として挽き、こけしの木地下も挽いた。36年と37年の夏2回奥玉根山(現在一関市千厩町奥玉)に行き、木取りや製板に従事した。明治38年春18歳で年期があけ独立、鳴子新屋敷の家にロクロを置いて鉢や盆を挽いた。
徴兵検査で山形の師団に入隊、除隊後はまた鳴子で挽いていたが、41年21歳で肘折に行き、佐藤文六の工場の半職人となって、椀や薄荷容器を作った。佐藤丑蔵や伊之助がいたが、彼は新兵衛の後釜であった。3月より11月まで8ヵ月働いた。
この後、秋田の鉱山を転々とし、山本郡の椿鉱山、小坂鉱山で働いた。22歳春に鳴子に帰り、秋に兵隊に行った。25歳で兵隊より戻り、再び鳴子で働いた。
大正3年27歳のころ岩手県台へ行って、菓子容れやこけしを挽いた。鉛へ行ったのも万五郎の手伝いであった。小松五平や高橋民三郎も働いていた。大正6年30歳のころ、釜石の鋳型工場で木型を挽き、宮古で土工をした。同じころ、仙台の福々商会で五平と共に働いた。玩具を主として挽いた。
大正7年鳴子に戻り、上鳴子の高橋勇経営の横屋工場に勤めた。エ場長は大沼熊治郎で、万之丞、健三郎、民之助、五平、誓、新兵衛等が働いていた。大正15年院内の椀工場へ熊治郎と共に行ったが2ヵ月で工場は破産した。その後秋田へ行ったのは44歳ころ、おそらく昭和6年で、広島製作所で駄馬の用具を一年間挽いた。昭和7年鳴子に帰り上鳴子古戸前86 の家で山仕事や鉱山の仕事、探鉱等に従事していた。
勘治のところに弟子入りしていたときの兄弟弟子に菊地栄次郎や菊地三九郎がおり押切忠輔は綱取りをしていた。
長男又吉(没)の長男実は役場に勤めている。
昭和42年鹿間時夫の依頼により、菅原和平木地に描いたのが復活初作で、その後松田三夫や中鉢君雄の木地に描いていたが、43年9月ころより小寸物は自ら挽くようになり、44年春には7,8寸の自挽きのこけしも作るようになった。高齢にかかわらず耳も目も腰もしっかりしていて、記憶も正確であり、鳴子の昔を語る貴重な工人であった。人柄もまた穏やかで癖のない好人物であった。昭和46年12月29日上鳴子にて没した。行年84歳。
柴崎丑次郎 昭和44年7月
〔作品〕 当初は蒐集家の依頼で菅原和平、松田三夫、中鉢君雄の木地に描彩のみ行っていたが、昭和43年9月81歳から再びロクロに上がって自挽きのこけしを作るようになった。自挽き再開時のこけしは、ほとんどが作り付けの小寸であった。自挽きの作り付けは、白鳥正明が最初に作らせて、後続けて製作したものは高円寺のねじめから売りだされた。
〔右より 12.2cm(昭和43年9月)、12.3cm(昭和43年12月)、11.5cm、12.1cm(昭和44年)(橋本正明)〕
〔右より 14.2cm、14.5cm(昭和43年12月)(橋本正明)〕
この模様を牡丹と称していた。
7、8寸の自挽きのものは肩と裾に赤のロクロ線一本を入れた古風な作であったが、面描は小寸のものをそのまま拡大したような描法であったから、鑑賞という点では小寸作り付けの方が好ましいものだった。作為の見られぬ童心あふれるこけしであった。
〔伝統〕 鳴子系利右衛門系列 ただし描法は必ずしも勘治の様式を受け継いでいるとは言えない。長い職人生活で各地を転々とした経験がこうしたこけしを生み出したのだろう。