仙台の杉村多利治が創業した木地工場。多利治は仙台にスポーツマン球場を設立したり、映画館を開設したりした実業家。大正7年頃、高岡幸三郎が多利治の福々商会を受け継いで木地業を続けた。仙台の東一番丁、北三番丁より土橋道17をへて校倉町21に転居しながら営業を続けた。福島、会津、遠刈田、青根、愛子方面より二人三人ずつ職人が出入りし続けた。柴崎丑次郎、小松五平、遊佐民之助、佐藤初三郎、佐藤巳之吉、佐藤幸之助、佐藤巳之助、佐藤菊蔵、後藤熊太郎、武田武美、重松満などが職人として働いた。この工場で後藤熊太郎は昭和3年より4年まで佐藤巳之助は昭和5年より8年まで職人をした。昭和10年猪狩庄平が来てこけしを作り、当時中学を出た高岡鉄寿に影響を与えた。高岡幸三郎は昭和25年9月27日に72歳で没した。その後、福々商会は重松満等により営業を続け、仙台の男沢春江の木地などもこの福々商会で挽かれていたが、昭和28年で閉店した。