高岡幸三郎

高岡幸三郎(たかおかこうざぶろう:1879~1950)

系統:弥治郎系

師匠:不詳

弟子:

〔人物〕 明治21年11月15日、仙台に生まる。高岡直次郎・コマの五男。その本家は福島県草野村と思われる。
明治20年3月坂本辰之助二女うめと結婚、忠直(明治41年生まれ)、義孝(明治42年生まれ)、誠(大正元年生まれ)、辰雄(大正2年生まれ)、鉄寿(大正6年生まれ)の五男をもうけたが、初め三子は誕生後間もなく死亡、辰雄は2歳で、五男鉄寿は21歳で膀胱炎のため死亡した。
大正6年5月妻うめは土橋通17において死亡、鉄寿出産の直後である。
大正6年5月、高岡彦治郎の三男武司を養子としたが、同人は昭和28年3月福島県石城郡草野村にて死亡、その長男元は昭和12年9月生まれ、日立市鮎川町に住んだ。
大正7年ころ杉村多利治の福々商会をうけついで木地業を営んだが、それまでは佐藤材木店の番頭として木挽きを本業とした。木地を誰に習ったのかはっきりしない。福々商会に来た職人達からの見取りであったかもしれない。
東一番丁、北三番丁より、土橋通17をへて支倉町21に転居、福島、会津、遠刈田、青根、鳴子方面より二、三人ずつ職人が出入りし続けた。柴埼丑次郎、小松五平、遊佐民之助、佐藤初三郎、佐藤巳之吉、佐藤孝之助、佐藤巳之助、佐藤菊蔵、後藤熊太郎、武田武美、重松満等があげられる。熊太郎は昭和3年より4年まで巳之助は昭和5年より8年まで職人をした。
昭和10年ころ、猪狩庄平が来てこけしを作り、中学を出て父の福々商会にいた鉄寿に影響をあたえた。昭和12年に鉄寿が膀胱炎で亡くなった後、幸三郎自描のこけしが桜井玩具店より売られるようになった。一説には幸三郎は椅子の脚しか挽かず、職人の木地に幸三郎が描彩していたともいう。
昭和23年2月、小松常吉の五女うんを後妻としたが、幸三郎は昭和25年9月27日没した。行年72歳。うんも昭和28年5月に没した。養子は福島県に去っていたので、幸三郎、うんの葬儀は最後の職人重松満がやった。福々商会は昭和28年で消滅した。
男児がみな夭逝し、健康にめぐまれず家庭的に不幸な人であった。

 〔作品〕昭和12年ころより戦前の時期に幸三郎として蒐集家の手に渡ったこけしは白地に顔料(あるいは泥絵具)で赤や紫の菊花を描いたものであった。明確な伝統性はなく創意で作られたこけしにもかかわらず、表情は明朗で気品に富み情味があった。こけしはもともと息子の鉄寿が作り始めたもので、鉄寿没後その作風に従って幸三郎が描いたものと思われる。
その原型は、福々商会でこけしを作った猪狩庄平のこけしをたたき台として鉄寿が作り始めたものであるが、同じ福々商会で職人をしていた佐藤巳之助ほかの影響もあったと思われる。鉄寿には巳之助の戦前のこけしに近接した作風のこけしもある。


〔 18.5cm(昭和15年)(ひやね)〕


〔24.8cm(昭和15年)(西沢笛畝旧蔵)〕

〔伝統〕仙台一般型(弥治郎型がベースになっている)

〔参考〕

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