高岡鉄寿(たかおかてつとし:1917~1937)
系統:弥治郎系
師匠:高岡幸三郎/猪狩庄平
弟子:
〔人物〕大正6年5月12日、仙台市土橋通の木地業高岡幸三郎、うめの五男に生まれた。父幸三郎は、杉村多利治の福々商会を引き継いで職人を置いて木地業を営んでいた。鉄寿は中学時代から父について木地を学び、卒業後は父の工場で働いた。
昭和10年ころから昭和11年頃まで父の工場の職人として働いていた猪狩庄平は、福島県平の佐藤誠のもとで木地を学び、佐藤誠ゆずりのこけしも作った。
猪狩正平のこけしに刺激され、鉄寿もこけしを作るようになった。鉄寿のこけしは仙台で売られ、橘文策の〈こけしと作者〉でも紹介された。しかし鉄寿は。昭和12年4月21日に膀胱炎を患ったのがもとで死亡した。行年21歳であった。
父の高岡幸三郎は、鉄寿が亡くなってしまったので、注文に応じて鉄寿の様式のこけしを作るようになった。高岡のこけしは桜井玩具店が扱っていたようである。
〔作品】橘文策は〈こけしと作者〉で「胴に描かれた牡丹は殊によく、柔かい桐の生地に調和して友禅の艶めかしささえ感じる」と鉄寿のこけしに好意的な評価を与えた。7、8寸以上のこけしには多く桐を用い、それ以下はみづきであった。製作は多くなく、昭和11年ころのものが少数残っている。
鹿間時夫は〈こけし辞典〉に「目鼻は明らかに弥治郎系であるが、頭や胴模様は巳之助の影響がある。」と書いたが、下掲の深沢コレクションの胴模様などは旭菊状で完全に佐藤誠の様式(柴田長吉郎旧蔵)であり、猪狩庄平経由で誠の面描および手描き胴模様をかなり忠実に継承したものと思われる。 橘文策は胴の花を牡丹として評価したが、〈こけしと作者〉に掲載された写真では花は二段に描かれており、下段はやはり旭菊である。上段の花は牡丹かどうかよく識別できない。基本的には佐藤誠の二段の旭菊状の花が原型であろう。鉄寿のこけしは、頭頂にベレー模様はないが猪狩庄平を経由して継承した佐藤誠の弥治郎様式が原型となっている。
〔15.5cm(昭和11年)(日本こけし館)〕深沢コレクション
7寸以上で桐材を用いたものは、年月とともに桐材が黒くなり、また描彩も見えにくいものが多い。いづれにしても残る作品数は少ない。
〔伝統〕弥治郎系。
〔参考〕