高橋賢三

高橋賢三(たかはしけんぞう:1939~)

系統:土湯系

師匠:阿部広史

弟子:

〔人物〕 昭和14年12月11日、東京都本郷の柾木政之助、トモの七人兄弟の四男に生まれた。柾木家は代々京都府に住んだが、父政之助の代に東京本郷で食品製造業として独立した。江戸時代後期から大正時代までは姓は柾の一文字であったが、昭和の初め頃から柾木となった。一説によると柾氏は京極氏の流れを汲む武家という。実家の目の前が東京大学赤門で賢三兄弟の遊び場であった。戦火が激しくなり昭和19年暮れに雇っていた家政婦の紹介で、福島県伊達郡保原町に一家で移住して終戦を迎えた。以後福島に住んだ。
賢三は学校卒業後に福島市内の老舗デパートに就職して、外商部と仕入部で商売の基礎を学んだ。昭和38年に経理事務所勤務していた高橋和子と結婚した。和子は埼玉県所沢市の丹治幹雄、すがのの子として生まれ育ったが、母すがのの兄で三代目高定商店主の高橋定吉に子供が出来なかったので養女として土湯に迎えられた。そうした縁により、賢三は昭和41年に10年勤めて幹部として将来を嘱望されていたデパートを辞し、高定商店に入った。義理の父定吉は、市立仙台商業に在学中の頃から天江富弥とは親友で晩年まで深い関係を持っていた。定吉の妻が仲代である。仲代は広島市出身で成人後に東京で看護婦をしていた。定吉が東京に仕入れに出た折に病気に掛かり入院した際に看護してくれたのが仲代で、この事が縁となり二人は土湯に一緒に帰り入籍した。戦前に仲代は阿部治助や西山徳二の木地に太治郎風の描彩をして高定商店で販売された事は〈こけし辞典〉にも掲載されていて蒐集界では広く知られている。仲代は広島市出身だったので故郷の広島からしゃもじを取り寄せてこけしの顔を描き、販売していた。中々活動的な女性でもあった。一部の文献等に賢三は仲代の子供と掲載されているが、以上のような経由で血の繋がりは無い。
賢三は昭和41年から土湯に住んで、父の定吉から小売りの指導を熱心に受けた。とても忙しい毎日であったが、早朝の沼や川での魚釣りが憩いの場であった。昭和43年に定吉が轆轤を購入した。阿部広史に話を付けて賢三を正式に弟子入りさせ、こけしの修業をさせる事となった。轆轤の設置には計英が熱心に手伝ってくれた。忙しい商店経営の合間を縫って時間を見つけて広史親子に師事した。広史は既に高齢であり鍛冶作業は主に計英から指導を受けた。金蔵や広史のこけしを将来に向けて残さねばならない、意欲ある人に伝承する気があると、こけし文化の事も十分に理解した土湯の文化人でもある。現在は土湯工人組合を辞していて、こけし工人名簿等にも掲載されていない。工房で轆轤を回すのは年に数回だが、高定商店に赴けばこけしは入手は可能である。


左:佐藤一弘(アサヒ写真館主)右:高橋賢三 高定商店

〔作品〕こけしは昭和46年から広史の影響を受けた本人型を発表したが、可憐で目の細い佳作であった。初期の賢三のこけしは師匠広史、義母仲代の作風を受け継いで、面描は上の松屋の広史風、胴模様は治助、太治郎混交の様式であった。


〔24.3cm(昭和46年初作)(中根巌)〕

昭和48年からは少し製作数は増えたが、高定商店でしか販売していなかったので残る作品は少ない。平成に入っても相変わらず寡作であったが、胴模様の種類が増えて手描きの花模様を楽しみながら描いた。表情は昭和の時代より少し黒目勝ちに変化した。


〔 25cm(平成10年頃)(本間和)〕

〔24.0cm、24.0cm(平成10年)(高井佐寿)〕
〔24.0cm、24.0cm(平成10年)(高井佐寿)〕


〔右より 18.2cm(平成9年12月)、18.1cm(平成16年7月)、15.2cm(平成16年7月)、15.2cm(平成22年8月)、15.0cm(令和2年4月)、9.0cm(令和2年4月)、9.0cm(令和2年4月)(中根巌)〕

80歳を迎える1か月前の令和元年11月になって、亡き広史、計英を偲んで金蔵型と広史型を製作を始めた。阿部計英工人亡き後、土湯こけしの象徴とも云える金蔵、広史のこけしを絶やしてはならないという思いからであった。


〔右より 15.1cm(令和2年4月)広史戦後型、18.2cm(令和2年4月)広史戦後型、18.1cm(令和2年4月)金蔵型、21.3cm(令和元年11月)金蔵型、21.3cm(令和元年11月)広史型、21.4cm(平成9年12月)仲代型(中根巌)〕

〔伝統〕 土湯系

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