高橋雄司(たかはしゆうじ:1934~)
系統:木地山系
師匠:高橋兵治郎
弟子:高橋秀雄
〔人物〕 昭和9年11月12日、川連久保の木地業高橋兵治郎の長男に生まれる。小学校時代より父兵治郎の仕事を見ながら木地挽きを覚え、中学の時にはすでに金の稼げる技術に到達していた。
昭和25年中学を卒業すると木地業に従事、主な製品は川連漆器の塗下木地であった。また、高野与八(顔料で緻密に書き込む創作こけし作者)のこけし木地を専門に挽いた。
父兵治郎の弟子阿部平四郎に勧められて、昭和38年頃からこけしも作るようになった。丁度戦後のこけしブームが始まる時期であった。父兵治郎の型を継承している。
後継者に長男の高橋秀雄がいて昭和59年頃からこけしの製作も行っていたが、今日では転職して作っていない。
〔作品〕 昭和38年頃の初期の作例は〈こけし事典〉などに掲載されている。
下に写真掲載のこけしは胴底に入手年月「38.10」の鉛筆による書き込みがあり、また〈こけし事典〉に佐藤兼一と並んで写真紹介されている雄司とほぼ同手であるから、初作に近い作例と言ってよい。その当時の兵治郎のこけしを写すことから始めているが、若々しく溌剌とした装いのこけしである。
〔21.3cm(昭和38年10月)(佐藤英里子)〕 ほぼ初作と思われる
沼倉蔵、左の昭和38年作は帯の緑線が抜けており、〈こけし事典〉掲載作現物と思われる。署名とともに初作と墨書きされているが、雄司本人曰く自分の書き込みではない。
〔右より 21.5cm(初作・昭和38年9月)、21cm(昭和39年9月27日)(沼倉孝彦蔵)〕
雄司の話では、昭和38年当時、東京こけし友の会の小野某(小野洸か)から依頼があった7寸を20本作成した。その前に、川上某(川上克剛か)が訪ねて来て、その中から5本持って行ったので、5本追加して友の会に納めたという。
昭和41年11月に〈東京こけし友の会〉の柴田長吉郎の勧めにより橘文策の木形子洞頒布(昭和7年)時代の細身の兵治郎作を復元、12月の友の会例会で頒布された。下の写真の右端が12月の例会頒布品である。
復元前に比べると、頭部から肩にかけてのカーブが古風で、全体に緊張感のある姿になり、着物の縞模様も太く描かれるようになって存在感のある作品となっている。
〔右より 18.6cm(昭和41年11月)、18.3cm(昭和42年12月)(橋本正明)〕
昭和7年作兵治郎作の復元
昭和38年初作署名は胴底に「雄司」、39年は「川連 雄司」、40年は「秋田川連 高橋雄司」、41年以後は兵治郎同様胴裏に入るようになっている。納める場所により地名の表記を変えている可能性もあり、これが全てであるかはわからない。
この復元以降、戦前の各時代の兵治郎の型を復元し、それぞれに成功している。
また、小椋泰一郎風の形態のこけしも製作している。
〔系統〕 木地山系
〔参考〕
soudo舎日記 こけしの話
木童舎コレクション「高野与八」