星昭成(ほしあきなり:1928~2015)
系統:木地山系
師匠:阿部平四郎(指導)
弟子:
〔人物〕昭和3年8月19日、福島県南会津郡桧枝岐村下ノ原の村役場要職 星数三郎、オジョウの長男として生まれる。次男和彦、三男郁文、長女華鶴美、四男譲治と4人の弟妹がいる。千葉市在住の四男譲治以外は桧枝岐村で暮らしている。
檜枝岐村(ひのえまたむら)は、嘗ては林業が中心産業で木工業が盛んであったが昭和48年頃より尾瀬と温泉の湧出により民宿等の観光業が中心産業となっている。江戸時代より300年弱続く桧枝岐歌舞伎は伝統文化として有名である。高冷地のため稲作に適さず、そば等の雑穀しか育たない豪雪地帯でもある。
昭成は昭和18年3月に桧枝岐尋常小学校高等科を卒業、昭和20年から22年頃は次男和彦と共に山林開拓に従事した。昭和23年21才より田島町(平成18年3月の町村合併で、南会津郡南会津町となる)の皆川木工所に入所した。皆川久馬より木地挽を習い、横挽き轆轤で盆、椀、輸出用のサラダボウル等を盛んに挽いた。昭和25年帰郷して自宅横に木地工場を作り横挽き轆轤を2台設置し、盆、椀を中心に挽いている。太鼓胴、まな板、こね棒(裁ちそば用)、碁盤、将棋盤等の木工品製作となめこや果実の缶詰製造、養蜂、サンショウオ漁も行った。
木地挽以外の木工業と養蜂業は数三郎以前の代からの家業である。
木地挽きは専ら昭成の作業、木工品加工、缶詰、川漁は父と昭成、三男の郁文と一緒に仕事した。この頃次男の和彦は電力会社に就職している。
桧枝岐では、材料は豊富で栃、栓の木(針桐)、欅、槐等の国有林から大量に払い下げを受け伐採できた。雪深い冬季に雪そりを使い一族総出で何度も運搬した。
昭和31年から35年には南郷村山口(平成18年3月の町村合併で南会津郡南会津町山口となる)の酒井木工(現在は酒井燃料店)へ出て木地指導と作業を行った。この時期、盆の漆塗りは会津若松の業者に出していた。これにより丁寧な仕事が認められて木地物の販路が広がった。
昭和40年頃からは養蜂となめこ栽培、製缶の比重が高くなった。蜂の越冬のために温暖な千葉県の房総半島の館山市や安房郡鋸南町保田を訪れることもあった。雪の無くなる5月に桧枝岐村に帰郷するのだが、千葉からの帰路に栃木の果樹農家に立ち寄り受粉用に蜂を貸し出す事も行っていた。
昭和44年5月に近所で火事が発生し延焼のため木地工場が全焼した。多くの木地製品やこけしを焼失したが、幸いな事に養蜂には影響がなかった。昭成のこけしで保存が良いのに水濡れしたこけしを散見するが、消火の際に水を被った作品で煤けたこけしと共に年代判定の基準となる。
昭和40年代後半から50年代は生活安定期で、旅行をしてこけしと焼物窯元巡り等を楽しんだ。その後も養蜂業を中心に生活するが、木地挽は需要の減少もあり50年代半ばから中断した。平成に入り弟と甥を助手に付けて養蜂を続けたが、平成20年に体力、知力の衰えが進み妻子のいない独身の昭成は祖業の養蜂業を甥に継ぐ事を切願した。平成25年から地域老人福祉包括支援を受け家事は妹の平野華鶴美が全て面倒を看ていた。
平成27年1か月程入院し、7月6日に没し、行年88歳。妹の華鶴美によると酒も飲まず、真面目で几帳面な性格だったとの事である。
死後にびっしりとこけしの顔と模様を描いた大学ノートが発見されこけしへの情熱が窺える。
〈秋田こけし会通信226号〉に沼倉孝彦が檜枝岐村の昭成のもとを訪ねた折の記述がある。
昭成は木地業の他に養蜂業を営んでいた関係で全国各地を廻っており、その関連であったかはっきりしないが、昭和40年代後半に川連の旅館に連泊し、阿部平四郎の教えを数回受けている。
〔作品〕昭和42年製作のこけしが確認されていて、昭和30年代後半から遠刈田系のこけしを参考に製作し始めたと思われる。初期のこけしは涼しい目と垂れ目の2種を描き分けていて模様は写実的な菊を一輪描いている。おそらく佐藤護あたりのこけしを参考にしたのであろう。遠刈田こけしであるがこの頃の作品は上から下への嵌め込み頭が多い。また胴模様の向かって左下に「幸」の一文字を描きこんでいるのも特徴である。
[ 右より 18.5㎝(昭和42年)、19.8㎝(昭和42年1月)胞吉風、37.0㎝(昭和43年1月)、35.0㎝(昭和42年)遠刈田一般型、20.5㎝(昭和42年前後)土湯一般型、15.5㎝(昭和42年10月)木地山一般型(中根巌)〕
〔右より 24.5㎝、21.7㎝(昭和43年頃)、25.5㎝(昭和45年前後)、25.6㎝、18.5㎝、18.2㎝(昭和47年前後)遠刈田一般型(中根巌)〕
この頃よりこけしは盆、茶器等と一緒に桧枝岐村の平野商店と井桁屋商店で販売されている。昭和43年頃から3段の重菊の模様が変化して一側目の顔も描きだす。またこの時期は、作り付けの木地山型や土湯系こけしそして胞吉風の作品も残している。昭和44年頃からは筆のタッチが細くなり二側目のこけしは封印して眼点の小さな顔に変化する。火事で工場を再建し心境の変化が作風に表れたのかも知れない。重菊は3段4段5段と描き分け枝梅模様や桧枝岐村の村花である水芭蕉を配しものや墨こけしを製作したのもこの時期である。またガラ入りこけしも製作しているが、頭では無くて胴に球体の木を入れている。昭和40年頃と推定される頃の作品は大物挽きの木地師らしく尺2寸以上の嵌め込み式の大寸こけしが多いが昭和44年頃からは差し込みで8寸以下のこけしが多くなる。基本の型は遠刈田系である。署名無い作品もあるが多くは胴底に「桧枝岐 ほしあき作」か「あき作」で製作日を入れる事も多い。収集家に渡った作品数は多くはなく、中古での販売の機会も少ない。
遠刈田系については、完全に見取りによるものか、指導を受けたものか定かでない。過去に泰一郎型、遠刈田一般型とも白石の全日本こけしコンクールに出品していたことがある。
〔遠刈田一般型(本人型) 17.5cm、24cm(全日本こけしコンクール出品作)、17.5cm(沼倉孝彦蔵)〕
上掲のように、遠刈田一般型(本人型)のこけしは重ね菊が鳴子や肘折のような横菊になっていた。
昭和49年前後に数度秋田県川連の阿部平四郎に描彩の指導を受け木地山型のこけしを製作するようになった。泰一郎型がフォルムと描彩に冴えを見せ、多くの佳作を生み出した。平四郎の木地に昭成が描彩だけ施した作品もあるが爪跡でどっちの木地かは容易に判断がつく。木地山型は他に阿部平四郎型、高橋兵治郎型、本人型等が確認されている。蒐集界に渡ったこけしはこの時期の泰一郎型が多いようである。この時期の署名は胴の背に「会津 桧枝岐 星昭成」と胴底に「桧枝岐 ほしあき作」と署名している。木地山型のこけしは昭和50年代前半まで作られたと思われる。何故、昭成が木地山系のこけしを作り始めたかは今となっては調べようもないが、昭和42年10月作の着物模様の作品が残っているので、その頃から興味を持っていたのであろう。昭成と平四郎は同年代でお互いに高い技術を身につけた木地師であったので相通じるところがあったのかも知れない。
〔小椋泰一郎型 15cm、24cm、15cm(昭和48年10月2日)(沼倉孝彦蔵)〕
高井佐寿著〈東北のこけし〉にも小椋泰一郎型が掲載されている。
〔右より 21.5㎝(昭和50年頃)泰一郎型、22.0㎝(昭和49年11月)泰一郎型、木地は阿部平四郎、15.0㎝(昭和49年8月)阿部平四郎型、19.7㎝(昭和50年以降)高橋兵治郎型、13.5㎝(昭和43年前後)、14.5㎝(昭和43年前後)、13.2㎝(昭和43年前後)蓋付えじこ(中根巌)〕
下掲のように川連一般型(本人型)は兵治郎のこけしとは違い、着物に墨の線が入らなかった。
〔川連一般型(本人型) 15.5cm、21.5cm(沼倉孝彦蔵)〕
〔右12.1cm 、左10.9cm(沼倉孝彦蔵)〕、サインはどちらも「桧枝岐ほしあき作」
年代を経ても寸分も狂いのない蓋物製作はさすがである。
桧枝岐村の風土に根差した木地師で独自のこけしを製作した昭成であるが、それは趣味では無く商品として地元で販売されていた。こけし工人として評価すべきであろう。
〔伝統〕木地山系。ただし、遠刈田系のこけしも作り、異色である。
〔参考〕
- 川口貫一郎:会津の工人(木でこ・71)(昭和48年9月)
- 沼倉孝彦:星昭成〈秋田こけし会通信・226〉
- 中根巌:皆川久馬と星昭成のこと〈木でこ・240〉(令和3年1月)