常川新太郎(つねかわしんたろう:1907~1981)
系統:南部系
師匠:不明(仙台工芸指導所)
弟子:
〔人物〕 明治40年4月29日、岩手県盛岡市紺屋町の常川正雄、タミの長男に生まれる。父正雄は南部板駒(玩具)の復興者、木杓子の作者として知られ、大正13年刊の全国特産品展覧会(大正13年)にも出品している。弟に潤次郎、雄三郎、秀雄、左吉雄らがいた。
新太郎は仙台工芸指導所で木地技術を学び、その後しばらくの期間、仙台市日ノ出町の鈴木清の職人として働いた。
昭和11年8月岩手県上閉伊郡遠野町の菊地明八町長に招かれて遠野に移り、木地の指導を行った。また自らも遠野町材木町で木地業を開業した。こけしは昭和12年より製作する。新太郎のこけしは菊地町長が見本として示した花巻の藤原政五郎のこけしを参考にして製作したものである。胴のくびれ、胴のロクロ線模様は政五郎の型を写している。
昭和12年に遠野町の清水チルと結婚した。長男庄司、二男正義および女子をもうけた。
橘文策の〈木形子〉で作者として紹介された。
こけしの描彩はもっぱら弟の雄三郎が行っていたという。
戦後はしばらくこけしの製作を休止していたが、昭和30年頃から再開した。また二男の正義に木地を指導し、昭和52年頃から正義もこけし製作に参加するようになった。
昭和56年3月7日没、行年75歳。
常川新太郎、潤次郎、雄三郎、秀雄兄弟 (〈こけし・人・風土〉水谷泰永撮影)
〔作品〕 常川新太郎名義のこけしは、実は常川一家のこけしの総称でもあって、木地は新太郎、潤次郎、雄三郎、秀雄、左吉雄のものがあり、描彩は主に雄三郎が行っていたという。古品の中に雄三郎という書き入れのあるものが僅かにあるが、これは描彩者が雄三郎ということを知った蒐集家による書き入れであろう。
〔12.6cm(昭和14年頃)(目黒一三)、13.1cm(昭和14年頃)、17.6cm(昭和15年頃)(鈴木康郎)〕 中央は鈴木鼓堂旧蔵 左端は〈こけし辞典〉掲載の西澤童宝玩具研究所蔵の昭和15年作に近い。
上の二枚の写真の描彩者はすべて雄三郎であろう。しかし下の一本は上掲のこけしの描彩とは違う。顔の表情がまず違うこと、頭頂部の剃り残しの髪が格段に大きいこと、ツンケを描くことなど明らかな相違がある。この描彩者は不明である。製作年代についてもはっきりしない。
戦後のこけしもほぼ同様の作であるが、頭頂中央の剃り残しの髪の周囲にロクロ線の入るものが多い。
なお、〈こけし・人・風土〉には新太郎作のキナキナが掲載されている。
常川新太郎ののこけしは、藤原政五郎のこけしの模倣から始まっており、表情はさらに昭和年代の人形のように幾分甘い。それ故、こけし蒐集家からは従来あまり高い評価を受けないこけしであった。
しかし、この表情は今日では若い蒐集家にかえって人気が高く、入手を望む蒐集家が多くなっている。
〔系統〕 南部系
〔参考〕 こけし千夜一夜 第545夜:底書きの信憑性(常川新太郎)