藤原政五郎(ふじわらまさごろう:1883~1947)
系統:南部系
師匠:藤原酉蔵
弟子:藤原新吾
〔人物〕 明治16年6月11日、岩手県稗貫(ひえぬき)郡湯本村湯本五郎城(ごろうじろ)の藤原酉蔵、チエの長男に生まれる。酉蔵は岩手県稗貫郡糠塚村の高橋市太郎の弟で藤原家に婿養子に入った人である。酉蔵の木地伝承ははっきりしないが藤原家は酉蔵の代で木地挽きとして六代目ともいうから養父の藤原千太郎から技術を継承したのであろう。酉蔵のこけしは少数ながら残っている。
政五郎は父酉蔵について木地修業し、自分の代になって足踏みロクロを導入したという。
夏季には台(臺)温泉の旅館福寿館に作業場を設けて、こけし・こまなどを挽いていた。夏季以外の時期は主に傘ロクロを挽いていたという。大正末期からは1年を通じて五郎城で仕事をするようになった。明治36年湯本の小野寺末之助三女ナカと結婚、三男四女を設けた。
橘文策の〈こけしざんまい〉には、昭和7年の東北こけし産地歴訪の途次、「花巻町内で見つけたこけしのいろいろ」として政五郎や高橋純逸と思われるこけしが掲載されている。昭和7年の花巻訪問では政五郎とは会えずじまいだったようだが、武井武雄の〈愛蔵こけし図譜-こけし通信〉では昭和8年に橘文策から東北巡歴の帰途お土産に恵与されたこけしとして、2本の政五郎が掲載されている。また、昭和9年には木形子洞頒布にも取り上げられている。ただし、写真紹介は昭和10年刊行の〈木形子談叢〉が初めてである。昭和13年の秋には動力をモーターに切り替えた。昭和18年頃までこけしを制作し続けたが昭和22年6月12日に亡くなった。享年65歳である。
〔作品〕 橘文策の〈木形子談叢〉(昭和10年)で初めて写真紹介された8本のこけしについては、左側の4本に数年前の作との注がついている。おそらく昭和6、7年頃の作であろう。右の4本には近作の注があり、おそらく昭和10年頃の製作であろう。
「形態のやさしさ、配色の巧みさ思いがけない出来栄である。様式は陸中系の御多聞に洩れず、キナキナ式であり、胴で一度くびれた所に、盛岡のオシャブリと兄弟分の感がある」と橘文策は同書の中で評している。旧作と言われるものの中の大寸(尺8分) は瞳を白く抜いていた面描の快作であり、その形態は酉蔵に似て量感あふれる異色の傑作であ る。他も政五郎としては初期の作であり基準となる。ただ面描等の細部は近作と旧作(数年前の作)との間に大きな差は 無いように感じられる。〈こけし手帖・91〉で柴田長吉郎は、政五郎のこけしをA~E型の5種に分類している(このA~E型の鑑別表は後段に示す)。その中で〈木形子談叢〉のこの旧作をA型また、一方近作の方をB型としているが、桐材の最右端以外は基本的にA型とすべきであろう。〈木形子談叢〉では「近時同地方名産の桐材を使用することがあって相当好評を得ているようである」と記しているが、この最右端の桐材の近作、直胴、ロクロ線なしのこけしは眉、目の描法も他と相違して、目は顔の中央より高めに位置し、眉は短く水平で両瞼の線も長くはない。これはむしろB型と同種の面描であり、政五郎長男新吾の描彩と思われる。
〈木形子談叢〉で始めて紹介された藤原政五郎
左4本 旧作、右4本 近作
政五郎のこけしの分類については、〈こけし手帖・91〉で柴田長吉郎が「藤原政五郎一五郎城こけしの追及」と題して詳しく述べている。昭和43年、煤孫実太郎の案内で五郎城ヘ新吾を訪ね、政五郎木地に新吾描彩のこけしを確認、また、翌年2月新吾の面描による2本のこけしを入手している。 柴田氏は昭和10年以前の初期の政五郎のこけしで本人描彩と思われるものをA型、昭和10年から14年までの長男新吾描彩と思われるものをB型に分類している。更に昭和14年新吾応召後、政五郎が新吾に似せて描いたとされるC型、花巻温泉の土産物店長寿庵が作らせたというD型、A~D型に属さない(高橋純逸の作と思われる)E型を挙げて いる。
昭和9年の第4回木形子洞頒布では、尺、7寸、5寸、3寸の4本組が頒布された。これらは全てA型であるが、木形子洞頒布時代のものは鬢を直線的な縦の二筆で描いたもの、しかもその二筆に少し隙間のあるものが多い。下掲の2本も木形子洞頒布とほぼ同時期の作。
〔右より 18.0cm、8.7cm(昭和9年ころ)(橋本正明)〕 A型
下掲の3本は典型的なB型、新吾の描彩で目や眉の線はは政五郎に比べて水平であり、鬢はべったりと塗りつぶすように描かれる。
〔右より 15.8cm(昭和12年ころ)(河野武寛)、30.0cm(昭和13年ころ)(国府田恵一)、15.6cm(昭和13年ころ)(鈴木康郎)〕 B型
下掲2本は新吾が応召になった後、再び政五郎が描くようになったもの。所謂C型である。政五郎が新吾の型を模倣しているが、それでも鬢は塗りつぶしでなく縦の複数の線描である。昭和18年ころまで政五郎はこうしたこけしを作り続けた。
〔右より 16.4cm、16.1cm(昭和15年ころ)(鈴木康郎)〕 C型
下掲は作者は藤原政五郎と思われるが、長寿庵の依頼により志戸平の佐々木一家の模作を行ったもの。政五郎が本来の自分の型でないものを業者の依頼で作ったものをD型という。この種の作には常川新太郎木地に小田島邦太郎が描彩したものもある。
〔16.7cm(昭和14年4月)(西田記念館)〕 西田峯吉コレクション D型
下掲は藤原政五郎の作風を真似て業者(長寿庵や金子庫三商店)が、他の作者に作らせたもの。新興の開発で生まれた花巻温泉の土産にしようという業者によって各種のこけしが考案された。昭和7年に花巻を訪問した橘文策はこうした新考案こけし各種を入手している。
こうした中で藤原政五郎を写したような作品を一括してE型と分類している。
下掲のものは、橘文策の〈こけしざんまい〉の写真の中にもいくつか散見され、おそらく昭和7年頃のものであろう。作者は高橋純逸ではないかとされる。
〔14.0cm(昭和7年ころ)(鈴木康郎)〕 E型 花巻の土産物店で売られたもの 作者は高橋純逸と言われている
藤原政五郎の作、特にA型は、父酉蔵の形態を継承しており、南部においてキナキナからこけしへと進化した一つの標本として貴重である。
〔系統〕 南部系
〔参考〕
- 柴田長吉郎:〈こけし手帖・91〉(1968)
- 鈴木康郎:〈こけし手帖・630〉(2013)
- 2013.2.10 こけし談話会「藤原政五郎のこけし
- 第777夜:藤原政五郎のこけし
- 第808夜:こけし談話会(政五郎)