奈良吉弥(ならきちや:1939~1971)
系統:木地山系, 鳴子系
師匠:成田七郎/鈴木清/鈴木昭二/小松五平
弟子:
〔人物〕昭和14年2月14日、秋田県鹿角郡十和田町大湯温泉字二本柳の農業奈良富衛、そめの五男に生まれる。大湯の定時制高校に通いながら毛馬内の木地師成田七郎について約三ヶ月木地の技術を学んだ。昭和29年ころより、大湯で新型こけしを作っていた画家の奈良靖規の木地を挽き、また大湯温泉成田屋旅館の向かいに店を出して、靖規描彩のこけし販売を行った。
昭和37年、たまたま大湯に来た仙台の鈴木昭二が立ち寄り、きちんと伝統の技術を学んだほうがいいと進められた。そこで仙台に赴き、三年半鈴木清、昭二の父子について木地挽きを本格的に修業した。その後大湯に帰るが、鈴木清から秋田でこけしを作るなら木地山風のものがよいとアドバイスを受けた。大湯では木地山風のこけしを作り始めたが、やがて後継者のいない小松五平と付き合いができ、その指導も受けるようになった。その間約二年間、五平の白木地も挽いた。昭和43年末、小松五平が中風で倒れ、こけしが作れなくなったため、五平の了解のもとに小松五平型を継承した。
新工場を新設してその完成間近、小松五平宅よりバイクで帰る途中に若者6人が乗った制限速度をはるかに超えた車に追突され、交通事故により急逝した。バイクで右折するのを確認した後続2台が減速していたのを、後ろから高速で抜きにかかった車に後輪を追突された。昭和46年4月12日没、行年33歳。道路の脇には供養碑が建ったという。
〔作品〕初期の作品は、木地山風のこけしであったが、これは秋田県で製作するということから鈴木清のアドバイスを受けて考案した木地山の一般型である。このこけしは鈴木清の店でも売られた。
この木地山風のこけしに加えて、昭和43年以降小松五平の了解のもとに五平最晩年の型を継承したこけしも製作した。
なんと言っても、交通事故で若くして世を去ったのは痛ましく、また残念であった。生きていれば五平最盛期の作を研究復元する機会もあっただろう。
〔右より 27.3cm(昭和45年)五平型、24.0cm(昭和46年)木地山一般型(高井佐寿)〕
〔伝統〕木地山風に作ったこけしは木地山一般型。五平を継承したものは鳴子系金太郎系列
〔参考〕
- 大石真人:奈良吉弥君のこと〈こけし手帖・121〉(昭和46年3月)
- 大石真人:奈良吉弥の碑〈こけし手帖・125〉(昭和46年8月)