新山慶美(にいやまけいみ:1925~2003)
系統:弥治郎系
師匠:佐藤慶治
弟子:新山純一/新山敏美/佐藤セチ子
〔人物〕大正14年8月3日、弥治郎新山慶治・かつの長男に生まれる。父の慶治は弥治郎の佐藤幸太の二男で、新山栄五郎の長女かつと結婚した。慶美が出生した後、新山家の家督相続権は慶美が受け継ぐこととなり、父慶治は大正15年に佐藤姓に戻った。佐藤勝一は慶美の弟であり、後に熱塩の佐藤春二の養子となった。昭和2年3歳のとき、家族で山形県白布高湯へ移った。昭和15年尋常小学校卒業後、父慶治について木地を修業し、四つ車、達磨輪投げ、亀、バケツ、鳴り独楽、提灯独楽など玩具を中心に製作した。昭和18年船岡の海軍火薬廠に徴用され、昭和20年2月には仙台師団に入隊した。
終戦後帰郷して、木地業に復帰し、父慶治の型を継承したこけしを作り始めた。名前は戦前東京で川口貫一郎が刊行していた〈こけし〉誌で紹介されていたが、写真紹介は戦後の美術出版社版〈こけし〉が最初であろう。
昭和35年に父慶治が他界し、そのあと慶美が土産品店経営を継いだ。昭和38年には動力ロクロエ場を新設し、さらに叔父の佐藤春二等の指導も仰ぎつつ木地業を続けた。昭和43年9月には店を改築し、木地製品や土産物の販売に努めた。
昭和48年には長男純一が店を手伝うと同時に、慶美について木地の修業を始めた。次男の敏美も高校時代に木地を習い、こけしを作ったことがあった。弟佐藤勝一の妻女セチ子は佐藤春二の没後、慶美の指導を受け、昭和60年よりこけしを作るようになった。
平成15年9月17日没、行年79歳。
〔作品〕 戦前の作品は残っていない。
戦後のこけしは父慶治の晩年作を写して製作をスタートしていて、細筆繊細な面描のこけしであった。
〔右より 29.7cm、17.7cm(昭和35年頃)(高井佐寿)〕
昭和36年頃より古作をもとに製作するようになり、〈美と系譜〉〈こけし辞典〉に掲載された昭和36年11月作の幸太型などのように溌剌とした作品を作るようになった。
〔系統〕弥治郎系幸太系列
幸太ー慶治の伝統を引き継いだ重要な工人であったが、蒐集界からの注目を浴びることが比較的少ない作者であった。長男純一、次男敏美も技術的にしっかりした作者であったがともに転職し、現在あとを継いだものはいない。
〔参考〕