新山勝洋(にいやまかつひろ:1942~)
系統:弥治郎系
師匠:新山定雄
弟子:
〔人物〕昭和17年3月30日、宮城県弥治郎出身の新山定雄、スイの次男に生まれた。父の定雄は弥治郎の新山久治郎の4男にあたる。新山久治、福太郎、左内は勝洋の伯父である。
従来の文献では名前を「勝祥」として紹介されたことが多いが「勝洋」が正しい。
勝洋が生まれた時には一家は茨城県日立市助川にいて、定雄は日立鉱山で医師の専属運転手として働いていた。勝洋が物心つく前に一家は宮城県伊具郡丸森町に転居した、父定雄は丸森鉱山で運転手として働いた。勝洋は昭和32年3月丸森町立丸舘中学校を卒業し、運送会社に就職してトラック助手となった。昭和33年に一家は丸森町から白石市福岡長袋に引っ越した。勝洋は昭和34年に運送会社を止めて定雄に弟子入りした。定雄のもとでの木地修業は厳しく、特に道具作りは職人の基本ということで徹底的に教えられたという。新型こけしの白木木地が主要な挽物で、けん玉、椀、盆えじこ等も作った。新型木地の注文主は主に柴田工芸社であった。勝洋が描彩まで手がけた伝統こけしは2回だけで、仙台市のしまぬきに納めたこけしの製作は昭和34年17歳からである。製作数は50本前後であった。昭和35年後半に父定雄が体調を崩して休業することになったので、勝洋も木地業に見切りをつけてこの時に廃業した。こけしの製作はわずか2年であった。昭和36年に再び運送業の仕事に就き、昭和45年に久松花子と結婚した。昭和47年に有限会社世新運送機工を設立して代表取締役社長に就任した。長く運送業を務めたが後継者がいなかったので創業37年目の平成21年に廃業した。その後、白石市福岡深谷で暮らしていたが、平成29年にかつて住んでいた白石市福岡長袋に自宅を新築し、以後悠々自適の生活を送っている。
〔作品〕製作は昭和34~35年の二年弱であるので、残る作品数は少ない。
〔右より 18.2cm(昭和34年)、30.3cm(昭和35年)(中根巌)〕
下掲は新山勝洋と言われる作。勝洋のこけし描彩は帯から下の衣装が直線的に二本で描かれることが多い。襟は父の定雄がV字形に描くのに対して、勝祥はY字形に描いた。
なお、下掲こけしと同趣の作品が〈こけし辞典〉には新山定雄として紹介されているが、それも勝祥の作であろう。
〔伝統〕弥治郎系新山系列
〔参考〕
- 中根巌:新山勝洋〈木でこ・233〉(令和3年1月)