佐藤円吉(さとうえんきち:1889~1947)
系統:遠刈田系
師匠:佐藤茂吉
弟子:佐藤孝之助/佐藤講作/佐藤茂利治/佐藤治郎
〔人物〕 明治22年12月14日、宮城県刈田郡宮村遠刈田新地の木地師佐藤茂吉、とねの長男に生まれた。母とねは佐藤文吉の長女で、茂吉は吉郎平家から養子に入った。戸籍表記は圓吉。円吉の弟に孝之助、妹にとしをがいる。としをは後に佐藤文六の養女となって及位に行き、佐藤文吉を生んだ。
円吉は小学校のころからロクロに親しみ、父茂吉や向かいの佐勝治平の工場でよく遊んでいた。当時青根の丹野倉治の工場で腕を磨いて帰ってきた治平の仕事ぶりを円吉は子供の頃良く見ていたという。明治34年13歳で茂吉の弟子となった。明治40年、新地にあった吉田峻治の水力応用工場に入り、松之進、治平、広喜等と共に働いたが、経営不振で1年足らずで閉鎖となった。
明治42年より小宮万四郎の職人となり、盆・雑器・玩具・こけし等を挽いた。弟孝之助・講作・茂利治はこの時の円吉の弟子で、ここで木地の修業を行った。大正9年より3ヵ月間福島県南会津郡田島町において県当局と同町で共設した木工伝習所に講師として入った。ここには1年前から赴任していた豊治がいて、協力して6人の弟子を養成した(弟子の名は不詳)。帰郷後しばらく木地業を続けていたが、大正13年不況のため転業、製炭や営林署の仕事をした。昭和10年ころから農業のかたわら木地を復活した。白石の日用品店「いすや」にこけしを卸したのがきっかけで、昭利12年ころから本格的にこけしを作り始め、同14年橘文策によって〈こけしと作者〉に紹介された。
このころ蒐集家に依頼され休業中の佐藤治平などのための木地も挽いた。
昭和15年三女やいに木須治郎を養子に迎えた。治郎は昭和18年より円吉について木地の修業を始めた。
昭和17年ころより、麻布の文具小物店「たつみ」から注文が入るようになり、円吉はその注文のこけしをほとんど専門に挽いていた。戦後は根付等の小寸物を多く挽いていたが、昭和22年1月22日脳溢血のため他界した。行年60歳。
〔作品〕 遠刈田新地の茂吉家の嫡男として、羽目をはずすことなく、規格に沿った作風のこけしを作った。父茂吉のこけしは晩年の筆が枯れた作品しか残っていないが、最盛期の茂吉と円吉のこけしは限りなく近いものであったと思われる。
〔24.2cm(昭和12年頃)(西田記念館)〕 西田コレクション
下掲2本も昭和12年頃の作、以後の作に比べると眼の切れが長く、表情溌剌としている。
〔右より 18.6cm(昭和12年頃)(鈴木康郎)、25.2cm(昭和12年頃)(田村弘一)〕
下掲は昭和14年5月作、眼はやや短くなり表情幾分おっとりとしてくる。
〔右より 12.3cm(昭和14年5月)(石井好喜)、24.4cm(昭和14年5月)(鈴木康郎)〕
いずれも寺方徹旧蔵
時に下掲写真のような弥治郎風の枝梅のこけしを作ったこともある。昭和14年に米浪庄弌が持参した名刺デザインに刷られた大野栄治型のこけし絵をヒントに作ったという。
〔右より 18.4cm(昭和15年)(田村弘一)、15.2cm (昭和15年)(国府田恵一)〕
名刺のデザインは上掲のように胴下部には二輪ほどの梅の開花が描かれたものであり、始めのうちは同様に描いていたが、次第に手が混んできて昭和16年には下掲のように多数の梅花が描かれるようになった。
〔右より 24.0cm(昭和16年)(沼倉孝彦)、21.2cm(昭和16年)(西田記念館)西田コレクション〕
〔系統〕 遠刈田系吉郎平系列
婿養子の佐藤治郎が円吉のあとを継いでこけしを作った。治郎の弟子に入ったのが大沼昇治で、昇治によって円吉型が復元された。
〔参考〕