本田亀寿

本田亀寿(ほんだかめとし:1919~1990)

系統:弥治郎系

師匠:本田鶴松

弟子:本田裕輔/大泉清見/松沢正麿/大浦久一/星博秋

〔人物〕 大正8年4月27日、宮城県刈田郡小原村字湯元23の木地業本田鶴松・まさの二男に生まる。長兄に安寿がいたが2歳で亡くなった。本田久雄は弟。昭和9年16歳で高等小学校卒業後、農業、土方、旅館番頭、郵便配達夫等を転々とし、昭和11年18歳から父について木地修業を始めた。玩具、こけし、筆立て、茶容れ等を挽いた。昭和12年10月19歳で横須賀海軍工廠造兵部に入所、旋盤工として働いた。昭和14年5月に父の本田鶴松が中風でたおれたため帰郷、7月には近くの小原赤坂の三泰鉱山会社に入社して働いた。白石のこけし研究家菅野新一は昭和14年9月に鉱山勤務の傍ら家業を手伝っていた亀寿にあっている。昭和16年一時朝鮮へ渡り、働いたが、暫時にして帰郷した。昭和17年以降は小原に落ち着き、桂屋旅館の湯番をしながら、木地挽きに従事した。昭和22年に小原の原田浦四郎二女久子と結婚、長男寿幸をはじめ多くの子供をもうけた。青年時代はきわめて明朗快活な社交家であったが、多少神経質で、転々と職を換えた。戦後小原に定住後は多忙で、酒を好み、気分の向いたときはこけし製作に取り組んだ。昭和26年には大泉清見に木地を教えた。昭和44年ころから、比較的多く作るようになった。弟子大浦久一は昭和35年に、松沢正麿は昭和41年に入門した。昭和47年には星博秋にこけしの製法を教えた。六男の本田裕輔は昭和48年から仙台の広井道顕について木地を学んだ後、昭和50年より父亀寿についてこけし製作を習った。
平成2年8月16日没、行年72歳。


本田亀寿 昭和51年3月 撮影:矢田金一郎


本田亀寿 撮影:佐藤 健兒朗

〔作品〕  初出の文献は昭和13年8月の〈木形子・3〉であった。
下掲右端は昭和13年入手の亀寿であるが、横須賀に出る前の昭和12年作かもしれない。面描は鉛筆書きのように硬いが初作に近いためかもしれない。左端は昭和15年作、小原の胴模様としては珍しい様式である。


〔右より 11.8cm(昭和13年)、14.5cm(昭和15年)(高橋五郎)〕

渡辺鴻はその発刊した雑誌〈鴻〉で、こけしの作者鑑別を行なったが、第1回となった第1号(昭和15年7月刊)で小原の作者を取り上げて、本田鶴松、本田亀寿、四竈健康、本田久雄の鑑別法を作品写真と共に掲載した。
22才と胴底に記入のあるこけしが何本か残っている。横須賀で働いていた亀寿が、鶴松が中風で倒れた知らせを受けて小原に戻り、鉱山に勤めながら木地を挽いた時の作品であろう。この時期も面描細く、硬筆風に描かれている。


〔 10.0cm(昭和15年)(田村弘一)〕 22才の記入あり


〔右より 16.9cm(昭和15年ころ) 22才の記入あり、18.6cm 鈴木鼓堂旧蔵 (昭和17年ころ)(鈴木康郎)〕

一時朝鮮に渡って、戻った昭和16、7年の作は、仙台の陸奥売店で扱われたようで、胴底に陸奥売店のゴム印を押したものがある。


〔30.1cm(昭和16、7年)(鈴木康郎)〕 胴底に陸奥売店のゴム印

昭和17年以降は桂屋の湯番を勤める傍ら、継続的にこけしの製作を続けていた。戦後すぐの時期のこけしも残っている。


〔24.0cm(昭和21年10月)(橋本正明)〕

戦後は次第に目や眉の湾曲が著しくなり、胴模様も細くなる傾向があった。
やや癖が強い面描であったが、戦後の弟子達の多くはこの時期の作風を学ぶ事からからこけしを作り始めた。
   

〔伝統〕 弥治郎系栄治系列 父鶴松は弥治郎の高梨栄五郎の弟子となって木地を習ったが、佐藤勘内の下で職人をしていたので、鶴松こけしの基本は勘内の影響下で形成されたと思われる。亀寿のこけしもその型を継承している。

〔参考〕

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