宮本惣七

宮本惣七(みやもとそうしち:1857~1919)

系統:鳴子系

師匠:宮本惣助

弟子:宮本永吉/守谷九蔵

〔人物〕 安政4年4月3日、陸中国磐井郡山目村120番宮本惣内、里さの二男に生まれる。長兄は惣蔵。祖父は宮本惣三郎、母里さは志田郡田尻村の斎藤新八長女。深沢要の宮本永吉からの聞書によると、「木地は、初代が惣助、二代が惣七、永吉が三代目である」、そして「惣助は岩出山の出身、木地は鳴子で修業したと思われる〈こけしの追求〉」という。
永吉の祖父の名は戸籍表記では惣内であるが、この惣内が木地初代の惣助だったのか、それとも兄の惣蔵が初代だったのか分からない。父惣内は文政6年9月6日生まれ、明治20年以前になくなった。鳴子の大沼亦五郎は文政7年生まれであるから歳は惣内とほぼ同じである。兄の惣蔵は安政元年9月3日生まれで明治42年5月11日になくなった。いずれにしても惣七は初代について木地を学び、初代とともに木地業を続けたようである。
惣七は、山目村の鈴木キン三女ナツと結婚、惣七一家は一時、西磐井郡山目村字山目小字東五代に移り、ここで長男永吉が生まれた。永吉の下に永七、栄三と男の子三人を得たが、妻ナツは明治22年1月31歳で亡くなったので、まもなく一家は一ノ関の長兄惣蔵の川小路の家に寄寓した。惣七は男手一つで苦労して子供たちを育てたという。ここに7、8年いたが明治42年に兄の惣蔵がなくなったので、しばらくして川端(地主町)に転居し、この地で木地業を続けた。 
深沢要は、昭和16年に伊藤松三郎からの次のような聞書をもとに宮本永吉を訪ね、惣七のことを確認している。「今から34、5年前(明治40年頃)の話だが、一ノ関の川小路に弟か息子かに綱を引かせてやっていた木地屋があった。面長で頭の毛を分けたジャッカイ(天然痘)の人だった。こちらから橋(磐井橋)へ向って左手は川小路、曲ったところから5、6軒行くと右手にその木地屋があった。表通にこけしなどか2、3本ならべていたことを覚えている。二人挽きの轆轤は金の竿ではなく、木の竿を使っていた。道具の恰好がどうも鳴子のようだった。男二人して稼いでいた〈こけしの追求〉。」
この男二人は、宮本惣七と長男の永吉であったと思われる。 永吉が木地業を継いだが、惣七の川端地主町時代の弟子には守谷九蔵という弟子もいたという。また、永吉が子供の頃(明治25年頃)、中尊寺に行った時、桜川というところで木地屋を見たが、こけしと赤の筋の入った独楽が大きな箱に入れて並べてあったという。中尊寺の鐘つき坊主を止めて木地を覚えたそうだが、それが惣七の弟子であったという。守谷九蔵の先にも惣七に木地を習った人が居たようである。
大正に入ってもずっと木地を挽いていたが、大正8年10月11日に没した。行年63歳。

〔作品〕  惣内は文政6年生まれで明治20年以前に亡くなっている。兄の惣蔵は安政元年9月3日生まれで明治42年になくなっている。したがって、惣内が初代であれば作品が残っている可能性は非常に低い。
一方で、一ノ関の宮本一家にかかわりのあると思われる古こけしはいくつかある。
下の写真は、石井眞之助蒐集になる古こけしであるが、木地の形態、胴の肩や上下のカンナ溝から一ノ関の宮本一家であろうといわれている。
木地の肌から二人挽き時代のものと思われる。ただ伊藤松三郎の記憶によると惣七は明治40年頃でも二人挽きであったから、年代の特定を議論するのは難しい。面描は長く遊ばれて、消えかかった跡を親が後書きで墨を補ったようにも見え、オリジナルの面影かどうか判断できない。鼻は大きく二筆の縦線、目は一筆で短い。この縦二筆の鼻の描法は、天江、鼓堂コレクションの惣七の描法と通じるものがある。鉋溝の入る位置は、肩に一本、胴下部に二本で惣七作と言われるものと同じである。
大正期の宮本惣七作とは、かなり作風が違うが、古い惣七の可能性が残る一本として紹介する。

〔30.3cm(明治末期か)(橋本正明)〕 二人挽きの作と思われる
〔30.3cm(明治期か)(橋本正明)〕 二人挽きの作と思われる

文献に惣七作と思われるこけしが、「奥州一の関にて鬻ぐコケシバウコ」として掲載されたのは、〈うなゐの友・初編〉 (明治24年刊 芸艸堂)である。明治20年代からこの地でこけしが作られていたことは確実である。この清水晴風による絵のモデルとなったこけしは、花筺コレクションに現存している(下掲)。写真は、高橋五郎著〈高橋胞吉-人とこけし-〉p.51にも掲載されている。


清水晴風旧蔵 〈うなゐの友〉のモデルとなったこけし


〈うなゐの友・初編〉に掲載されたことにより、一ノ関のこけしは古くから知られ、明治・大正の好事家たちに求められたのであろう。惣七の没年が大正
8と古いにもかかわらず、その作品は比較的残っている。

〈うなゐの友・初編〉 明治24年刊 奥州一の関にて鬻ぐコケシバウコ
〈うなゐの友・初編〉 明治24年刊 芸艸堂
奥州一の関にて鬻ぐコケシバウコ

下掲の6寸5分は天江富弥旧蔵の宮本惣七である。惣七は大正8年没であるから、〈こけし這子の話〉出版の時には、既に収蔵されているはずであるが、掲載されていないのは不思議である。あるいは当時の現存工人以外は載せなかったのだろうか?

〔19.4cm(大正中期)(高橋五郎)〕 天江コレクション
〔19.4cm(大正中期)(高橋五郎)〕 天江コレクション

下掲の7寸は、保存極美、鹿間時夫が玉葱状の菊と評した胴の花模様も雄渾で雅趣に富む。

〔21.1cm(大正中期)(鈴木康郎)〕
〔21.1cm(大正中期)(鈴木康郎)〕


宮本惣七(鈴木康郎)頭部

下掲のらっここれくしょん及び鈴木鼓堂旧蔵の2本は、前掲の天江富弥、鈴木康郎蔵の作風と比較すると、特に面描の雰囲気が幾分異なる。眼点は丁寧に描かれ、目鼻口のバランスも端正である。製作時期がやや異なるのかもしれない。

〔21.8cm(大正中期)(らっここれくしょん)〕
〔21.8cm(大正中期)(らっここれくしょん)〕

下掲の西田記念館蔵品は、胴に緑の染料を用いた極めて稀有な作例である。それ故、 〈図譜 原郷のこけし群〉では作者不詳として扱われているが、胴模様や前髪の飾りの描き方が永吉とは全く違って惣七の様式であるので、惣七作して紹介する。


〔 18.5cm(大正中期)(西田記念館)〕 西田コレクション


〔右より 18.5cm、18.0cm(大正中期)(鈴木鼓堂旧蔵)〕

長男の宮本永吉のこけしと比較すると、惣七の胴模様の玉葱状の菊と、永吉のシンプルな熊手状の菊は異なる。また惣七の、前髪の後ろに水引の形態を残した描法と、永吉の単純な縦線の飾りとは異なる。

一ノ関のこけしが、鳴子からの伝承であるとして、その師匠等についての情報はない。所謂外鳴子とよばれる古い時代の鳴子からの分岐の一つであろう。

系統〕 鳴子系外鳴子

〔参考〕

  • 深沢要:〈こけしの追求〉 「作者小伝・宮本永吉」
[`evernote` not found]