斎藤竹司(さいとうたけし:1935~)
系統:津軽系
師匠:独学で描彩のみ
弟子:
〔人物〕昭和10年、青森県津軽郡山形村温湯の斎藤幸兵衛の五番目の男子にうまれた。幸兵衛の第一子峯一郎は養子であり、上三人の兄は生後間もなく亡くなっているので、実質的に長男はであった。青森市で海産物加工販売業を営んでいたが、昭和36年10月13日に石木田アヤと結婚し、その後独立して青森駅前魚市場(現在のアウガ新鮮市場)の中で斎藤商店として魚介類の加工販売をした。誠実な人柄で市場の幹事を長年務めた。
昭和63年4月15日に津軽こけし館がオープンしたが、初代館長の鳴海房之助が展示の目玉商品として竹司に描彩を依頼した。竹司はこけしには全く関心が無く固辞したが、何度となく説得され、応じる事となった。木地は村元文雄である。
〈木の花・第10号〉覚書の幸兵衛こけしで論じられた異質な幸兵衛④・⑤を忠実に写した作品を5本ほど描いた。その後、伊勢こけし会の佐藤辰夫の熱心な依頼により平成9年3月小島俊幸の木地に3種類27本の描彩している。9セットが山本吉美により公にせずに仲間内で頒布された。描彩にあたり津軽こけし館に幸兵衛のこけしを何度も見に行ったという。りんご模様は青森の名産であり竹司の意志で描いたとの事で、勝手な事をしては駄目だと妻のアヤと言い争いになったことがあった。竹司はたくさんの兄弟の中の一番末っ子で峯一郎とは24歳の差がある。竹司が生まれた頃、幸兵衛は福井市の繊維会社を転々としていて父の記憶は余りなかった。只、父や温湯への郷愁は大変強くさすが温湯旧家八軒の流れを汲む直系の人物であると竹司と会った佐藤辰夫は評していた。
〔作品〕下掲右端が昭和63年に村元文雄木地に描いた幸兵衛型。左3本は小島俊幸木地である。
〔右より 24.3cm(昭和63年3月)、24.3cm(平成9年3月)、24.3cm(平成9年3月)、18.2cm(平成9年3月)(中根巌)〕
下掲は上掲左3本と同様に平成9年3月に小島俊幸の木地に描彩したもの。
〔24.0cm(平成9年3月)(坂入良喜)〕 木地は小島俊幸
〔伝統〕津軽系温湯系列
〔参考〕
- 佐藤辰夫:津軽の風土と人情とこけしあつめ〈木でこ・185〉(平成18年11月12日)
- 平塚俊夫:こけし談話会だより〈こけし手帖・562〉(平成19年11月)