大沼熊治郎

〔人物〕明治9年9月15日、鳴子大沼善三郎(通称栄五郎)の二男に生まる。父善三郎は大沼駒蔵の長男で弟に栄三郎がいた。父栄五郎は沢口吾左衛門文書の木地挽きの部にその名を見ることができる。熊治郎は父栄五郎より木地技術を習得。明治36年大井沢志田正二、志田五郎八の工場へ行って木地を指導、明治38年には川連阿部林蔵の工場で大車を使って大物を挽いた。その後、肘折の尾形政治の工場に行き、佐藤文六のもとで働き、明治45年5月には文六とともに及位仙北沢へ移り、大車で木地を挽いた。大正2年からは横手浅利製材工場に入り、福田良助などに木地を教えた。その後、良助を連れて鳴子へ帰り、小松五平・柴崎丑次郎とともに上鳴子の営林局工場で一年間程働いた。大正4年には大鰐の秋山耕作のもとで仕事をし、さらに浅虫へ移った。大正9年ころには仙台に行って東八番町の東北漆器会社に入り、大物挽きの親方などをした。このときこの工場では、鈴木庸吉・大沼健三郎・佐藤政治郎・初三郎兄弟・高橋某などが一緒に働いた。
大正15年には院内の椀工場に招かれ、柴崎丑次郎や熊治郎の弟子二名とともに働いた。この椀工場には佐藤文六や菅原富蔵も見にきた。ここは一年ほどでつぶれたので、その後、湯沢の曲木工場などを経て秋田県仙北郡六郷に移り独立した。昭和7年5月10日、六郷にて没す。享年57歳。

熊治郎は大車ロクロなどが得意で、横木を専門にしていたため、こけしは作らなかった。しかし、多くのこけし作者と共に働き、その経歴は接触した工人の経歴年代を確認するのに役立った。
従来の文献では、大沼熊五郎、熊次郎、熊次、熊谷熊次郎などの名で扱われてきたが、大沼熊治郎が正しい。木地の弟子では志田善見(五郎八)、福田良助がこけしを作った。ただこの二人もこけしについては他の工人の作品を参考に作ったと思われる。

〔参考〕

  • 橋本正明:大井沢の鳴子工人〈こけし手帖・107〉(昭和45年2月)
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