八鍬亀蔵

八鍬亀蔵(やくわかめぞう:1877~1942)

系統:肘折系

師匠:八鍬林蔵/井上藤五郎

弟子:

 明治10年6月24日、山形県最上郡南山村肘折に生まれた。八鍬安蔵(五代目林蔵)の長男。明治26年5月12日に父安蔵が44歳で没したが、当時亀蔵はまだ17歳だったので、祖父の鶴蔵(四代目林蔵)が六代目林蔵を再継、明治29年に鶴蔵が隠居して、亀蔵が七代目林蔵を名乗った。したがって、亀蔵は林蔵と家名で呼ばれることが多い。亀蔵のあとの林蔵(八代目)の名跡は亀蔵の長男福蔵(明治31年12月1日~昭和46年5月20日)が継いだ。なお、祖父鶴蔵は、明治38年7月29日、76歳で没した。
亀蔵が木地を習ったのは、父の死ぬ前年、15歳のときからで、遠刈田で一人挽きを学んだ井上藤五郎に師事し、以後、大正10年ころまで、盆、茶櫃等を主体に木地を挽いた。佐藤文六が尾形政治の下請となった当初、仕事を手伝ったこともある。また木地玩具は荷車引きがよく売れたので相当作ったという。こけしも上手で佐藤丑蔵は亀蔵にこけしの描彩をしてもらったことがあり、亀蔵が紙へ胴模様を描いたものを今でも保存しているという。
しかし、亀蔵のこけしは発見されていない。亀蔵は木地挽きのほかに建物を建てる際に大工に代わって材木を見積もり、山子を指示して木を伐り出す大工世話役もやった。足踏みロクロで前板が胃部に当たるために胃を悪くし、大正10年ころ木地をやめ、その後は大工世話役のほか、箆作り、臼作りなどをやった。その後八鍬林蔵家では、菓子製造(くじら餅)を行なっているが、これをはじめたのも亀蔵の時代で、明治31年に横山五兵衛の娘キンと結婚して間もなくてある。キンとの間に三男二女があるが、長男の福蔵が子供のころにこまを挽いたことがある程度で、弟子もなく、木地の後継者はいない。昭和12年ころより心臓を悪くして働けなくなった。秀島孜が亀蔵に逢い、工人として紹介したのはそれから間もなくであったが、残念ながらすでにこけしを作れる状態ではなかった。昭和17年9月2日、66歳で没した。


「稲花まんじゅう、くじらもち 製造販売 八鍬林蔵」(昭和43年撮影)

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