奥山運七(おくやまうんしち:1864~1939)
系統:肘折系
師匠:柿崎酉蔵/井上藤五郎
弟子:奥山喜代治/吾妻鉄造/四谷要吉
〔人物〕 元治元年12月7日羽前国北村山郡大久保村大原(現在の山形県村山市)の奥山銀助(通称・長蔵)の長男に生まれる。屋根葺き職人に弟子入りしたが、明治13年17歳のとき屋根から落ちて足を怪我したため、肘折に湯治に行き、そのまま神野旅館の居候となって住み着いた。神野旅館は月山信仰登山の宿坊密蔵院で、いまの丸屋旅館の場所にあった。
明治17年21歳のとき、肘折の柿崎酉蔵の弟子となって、二人挽きの木地を習得した。井上藤五郎(後の柿崎藤五郎)は兄弟子にあたる。明治23年遠刈田の佐藤周治郎のもとで一人挽きを習得して帰ったこの井上藤五郎について足踏みの技術を学んだ。
その後しばらくして独立し、明治28年には大石田の榎本清助の二女ヤスと結婚した。子供に恵まれず、ヤスの姉の子吾妻鉄造を養子にしたが、鉄造は木地の仕事を好まず、3年ほどで肘折を去った。大正10年に自分の生まれた北村山郡大久保村の篠沢金蔵の三男喜代治を養子に迎え、木地の技術を伝えた。
運七は円満な人柄で、周囲との付き合いもよく好かれたが、体が弱く、体力的には恵まれなかった。力が必要な大物はあまり挽かず、こけしや玩具を多く作ったという。こけしは人気が高く「うんつこけし」との愛称で親しまれていたという。妻ヤスもこけしの描彩を手伝っていたという。
木地は、昭和7年頃まで挽いていたようだが、その後は喜代治に任せて夏に畑仕事を少しする程度の生活だったらしい。
昭和14年6月6日老衰のため没す、行年76歳。
弟子には吾妻鉄造、喜代治に加えて四谷要吉ほか1名がいるというが、喜代治以外の動静は詳しくはわからない。
〔作品〕 奥山運七を最初に紹介したのは昭和3年1月刊の天江富弥著〈こけし這子の話〉である。この時は下の写真の右端を掲載し、「こけし会の主事三原良吉氏が本年5月単身積雪を冒して同地を訪れ、漸く調査しえたもの」と紹介している。
下の2本はこのときのこけしで共に昭和2年5月作である。
ただ、左右の2本、面描がかなり違うのでいづれかはヤスあるいは喜代治の描彩ではないかという人もいる。
〔右より 20.6cm、20.0cm (昭和2年5月)(高橋五郎)〕 天江富弥旧蔵
下の写真は石井眞之助旧蔵の尺5分。雄渾な筆致に健康的な表情で、運七の魅力的な面がもっともストレートに表現された作品。
〔32.0cm(昭和初期)(橋本正明)〕 石井眞之助旧蔵
下掲の8寸5分も、武井武雄と親交のあった新潟の峰村慎吾旧蔵で同時期の作。〈日本郷土玩具・東の部〉に掲載された武井武雄蔵8寸5分(昭和4年3月入手)とほぼ同時期の作と思われる。
下掲の8寸5分(25.8cm)も石井眞之助旧蔵で、西田峯吉の手に渡ったもの。 頭にガラが入っていて振ると音がする。 胴底面に「横山仁吉」と書き込みが有る。横山仁吉は肘折の横山仁右衛門商店主、木工所を経営していてこけしの取次ぎも行ったので、このこけしは横山商店経由で、石井眞之助が入手したものであろう。
〔25.8cm(昭和6年頃)(西田記念館)〕
下の写真はらっここれくしょんのもので、収蔵者中井淳の控えによると昭和9年に三浦辰雄より入手となっている。面描はおとなしく比較的晩年の作かもしれない。
〔系統〕 肘折系運七系列
肘折系は、鳴子系を学んで帰った柿崎酉蔵のこけしに、遠刈田弥治郎の工人たちとともに一人挽きを身につけて肘折に帰った井上藤五郎の新手法が合流して確立した系統である。その意味で、井上藤五郎、奥山運七は肘折の創成を担った工人である。
運七のこけしは、形態的には鳴子を継承、二側目の描法や胴に黄色を敷くのは遠刈田からの伝承、リアルな口唇の描法は飯坂の栄治や遠刈田古品にまれに見られる。おそらく蔵王東の古い様式であったろう。
運七の型は、奥山喜代治、奥山庫治、鈴木征一が継承した。
〔参考〕 みずき会編〈こけし研究ノート・Ⅱ-NO.5〉 運七と喜代治