山田儀右衛門

〔人物〕秋田県仙北郡西木村檜木内の木地師。儀右衛門は屋号で代々家督がこの名で呼ばれる。初代儀右衛門は八太郎といい、天保年間の生まれ、加賀出身と言う。安政三年頃より檜木内に移り、木地業に従事し、南部系のキナキナを作った。初出文献は〈旅と伝説〉で、角館の考古学者武藤鉄城の報告がある。これによると、儀右衛門のキナキナは角館で売られ、カックラ棒と呼ばれていた。その後、橘文策編〈木形子〉に「カックラ探究」と題する佐藤与始人の調査が発表され、さらに名古屋こけし会編〈木でこ・28、29号〉に田中舜二による緻密な追求結果が報告されて儀右衛門の周辺はかなり明確になっている。従来、二代儀右衛門(大正11年2月15日没)、三代儀一郎(昭和12年4月11日没)も作者と伝えられていたが、実際には初代の八太郎儀右衛門のみが木地挽きであったらしい。八太郎儀右衛門は明治31年12月27日、66歳で没した。したがってカックラ棒の製作は安政年間より明治中期にかけての期間であった。

〔作品〕山田儀右衛門のこけしは未確認である。「カックラ探究」によると初期のカックラ棒は2寸5分より4寸5分までの白木のキナキナであったが、明治13年頃より胴の上部と下部に緑赤緑の順に3本のロクロ線を入れた。ただし目鼻は描かなかった。販路は近隣六ヶ村で年末や4月8日などに女房が柄杓、杓子と共に売り歩いた。明治初年には4文くらいであったものが、明治中期には5文になったという。藤原政五郎作小寸や深沢コレクション中の小寸のキナキナと似たようなものであったかも知れない。

〔伝統〕南部系のキナキナ。元来キナキナの発生はこけしに比べて古く、その製作は工人の系譜よりむしろ地域的因子によると考えられている。したがって加賀出身と言われる儀右衛門が、キナキナを製作したという事実は、檜木内がキナキナ文化圏に属していたことを示している。初代儀右衛門没後、木地業を継いだものはなく、カックラ棒は完全に廃絶した。昭和10年深沢要がカックラ棒の復元を願って角館の平瀬貞吉に製作を薦めたが、できたものは創作的色彩が強く資料的価値は乏しかった。

〔参考〕

  • 佐藤与始人:「カックラ探究」〈木形子・第5号〉(昭和13年11月)

木形子第5号 カックラ探究

  • 田中舜二:廃絶こけしのふる里を訪ねて〈木でこ・28、29〉(昭和44~45年)
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