主に南部系の工人によって作られる、頭部がくらくらと動く小寸(10cm程度が定寸)のこけしをいう。キナキナは頭部が揺れる様子の擬態語である。
産地は、盛岡、花巻を中心とした岩手県、および秋田県の一部を含む。キナキナの作られる一帯は、それを作る工人というよりは、キナキナをおしゃぶりとする習俗をもつ地域に依存するため、その地域を「キナキナ習俗圏」と呼ぶこともある〈木の花 第8号、第9号〉。その地域に来た工人の多くが、木地の系統に関わらずキナキナを作る傾向があったからである。
キナキナの呼称は地方によって、いくつかの変異がある。きなきなずんぞこ(一ノ関)、きなきな坊(上閉伊郡)、かっくら坊・かっくら棒(角館)、くなくなこけし・きくきく坊(膽澤)、きくら・きくらぼっこ(鉛)、きっからぼっこ(花巻)等。
本来は、幼児のおしゃぶりとして作られたもので、無彩の白木のものがオリジナルの形である。中には胴の部分に簡単なロクロ模様等の装飾を付すものもある。
胴にロクロ線の加わったキナキナ
〔右2本 作者不詳(深沢コレクション) 左 藤原政五郎(橋本正明)〕
また、おしゃぶりとして頭部に檳榔樹の実などを使ったキナキナもある。
盛岡の安保、松田という古いキナキナ工人の流れを継承した寺沢政吉の家ではキナキナの縁起を次のように伝えている。
「盛岡の城下町には『きぼうこ』というおしゃぶりがあり、幼児の歯ぐきを丈夫にするために桑の木で作った。桑は万病除けの名木である。藩政時代、若君、姫君の誕生の際には、お抱えの木地師は、この名木で首を動くようにおじゃぶりを作り献じたと伝えられる。この風は、やがて上級武士、そして一般民家の間にも広まり、出産祝いにこのおしゃぶりを贈るようになった。首が動くのでいつの間にか、きなきな坊っこと呼ばれるようになった。使い終わると、子供の生年月日、氏名を書いて、その子の養子、嫁入りの折にはへその緒とともに持たせてやったものである。」
こけしが蒐集家によって集められるようになり、キナキナもその蒐集対象の一つとなるにつれて、一部の工人により頭部に面描を施すもの、またおしゃぶりの大きさを超えた大型のものも作られるようになった。
また本来はキナキナの工人であったものが、他のこけし産地の工人との接触交流、技術伝承などにより、頭がくらくらと動く構造の木地に面描を含む描彩を施すものもある(照井音治、藤井梅吉、藤原政五郎、佐々木与始郎など)
鳴子の立ち子にはキナキナのように頭部が動くものもあり、立ち子はキナキナの形が祖形という説もある。
同じおしゃぶりでも、遠刈田系ではしゃぶる部分が両端に就いており、その中央を幼児が握るようになっている形態のものを作る。鳴子以北とはおしゃぶりの形態は異なる。
柳田国男は〈こども風土記〉の「ベロベロの神」の項で人形の発生の一つの形として、おしゃぶりに注目しており、次のように書いている。
「人形が今のように写実になったのは、わが国でもそう古いことではない。東北で盲の巫女が舞わせているオシラサマという木の神は、ある土地では布でおおうた単なる棒であり、また他の土地では、その木の頭に目鼻口だけ描いてある。そうしてこれをカギボトケという名などもまだ時々は記憶せられている。信心な人たちの強いまぼろしでは単なる鉤のある小枝でも、なおありがたい神の姿に見ることができたので、それを祭りする人の口の前に持ってくることが大切な条件ではなかったかと思う。東京でオシャブリ、関西でネブリコなどという木の人形も、これを轆轤でひいて今のコケシボコにするまでの、もとの形というものがあって、それが後には幼い者の手によって管理せられることになったのではあるまいか。」
南部地方では、このカギボトケ、すなわち「ベロベロの神」で遊ぶ風習はかなり後まで残ってり、キナキナ型のおしゃぶりとの関連が強く予想される。
天江富弥は「おしゃぶりからきなきな坊に、きなきな坊からこけしに進展した」という考えを示したことがある。
今日の研究では、一概にキナキナが全てのこけしの祖形であるとは考えられないが、すくなくとも「キナキナ習俗圏」に限って言えばキナキナがこけしに先行していたであろう。
童画家の武井武雄はその著書〈日本郷土玩具・東の部〉(昭和5年)のなかで、キナキナについて「白昼夢の華麗さを心憎いまでに幻出している」と書いた。これにより白木素材の造形だけのキナキナも十分鑑賞に堪えうるという評価が定着した。
〔参考〕