柿崎文雄(かきざきふみお:1947~)
系統:土湯系
師匠:高橋武男/岩本芳蔵
弟子:
〔人物〕 昭和22年5月23日、福島県耶麻郡猪苗代町白木城(現在の蚕養西大森甲)の柿崎善六の長男に生まれる。父善六は沼尻の硫黄鉱山に勤務していた。柿崎家は岩本芳蔵家と姻戚関係にあたる。
昭和38年17歳の時に、岩本芳蔵の弟子として入門したが師芳蔵が体調を崩したために、昭和39年蒐集家小野洸の世話により鳴子の高亀に弟子入りすることになった。高亀では高橋武男・正吾より木地の手ほどきを受けた。昭和42年春年期があけて11月まで働いて白木城に戻り、あらためて芳蔵にの弟子となり、昭和43年4月には工場を新築して独立、本格的にこけしの製作を開始した。当初は鳴子の高亀型のこけしを作った。
岩本芳蔵の許しを得て中ノ沢の「たこ坊主」の型も作るようになった昭和45年以後、鳴子の型は作らない 。
この頃には父の働いていた硫黄鉱山は閉山になっていて、母は裏磐梯まで働きに出るようになっていたので、20代の文雄が一日でも早く仕事を軌道に乗せ、一家を支える必要があった。
以後継続してこけし製作に取り組んでいる。
〔作品〕 初期には修業した鳴子の高亀型のこけしを製作し、猪苗代町や裏磐梯の土産物店に出していた。
〔24.2cm(昭和43年10月)(沼倉孝彦)〕
芳蔵の許可を得てから、中ノ沢の「たこ坊主」の型を作るようになったが、最初は当時の芳蔵のこけしを手本にした。下の写真の右端は鳴子から帰郷後間もない昭和42年12月の作で、芳蔵の面影が強く出ている。
昭和43年後半から鹿間時夫の勧めもあって岩本善吉の型に取り組むようになり、以後各種の善吉型を作るようになった。
〔右より 23.8cm(昭和42年12月)、24.0cm(昭和43年11月)、15.5cm(昭和44年7月)、13.5cm(昭和45年3月)、18.5cm(昭和45年5月)(橋本正明)〕
昭和43年7月に鹿間時夫の依頼で氏家亥一型を製作した、その時の亥一型は橘文策蔵の亥一をよく写した快作(〈こけし辞典〉に図版あり)であり、その頒布を夢名会で企画したが、10月に頒布品として送られてきた亥一型は下の写真のように形態表情ともにやや崩れていた。
この亥一型、「こけし千夜一夜第513夜:柿崎文雄の亥一型」に昭和44年作が紹介されているが、この時の亥一型は再び鹿間時夫による復元第1作に近づいている。
一方で同時に作られ夢名会で頒布された善吉型は完成された作行の佳作であった。
〔24.1cm、24.1cm(昭和43年10月)(橋本正明)〕 夢名会頒布
柿崎文雄は筆法に癖があるが、復元を行うときには原作に忠実な筆さばきを心掛けるのでその癖は現れない。善吉型といっても原作を写すのではなく、型(様式)にだけ従って文雄が自由に作る場合はその癖が出て筆が踊る。
〔系統〕 土湯系中ノ沢亜系
〔参考〕