土湯系のこけしの小寸のもので胴が膨らみ裾がくびれて、台座形がついたものを太子型と呼んでいる。土湯の太子堂にちなんだもので、この型のこけしを求めて太子堂に奉納すると、願い事がかなうと言って、子供を授かりたい人や、病気平癒を願う人は好んで求めたという。ただし、同形のものを遠刈田では地蔵型とよんでおり、また土湯のものでも地蔵のよだれかけ状のものを描いたり、首周りを赤く塗るものが多いので地蔵が原型とする意見もある。
戦後にはこの太子型の形状で大寸物を作る工人も現れたが、本来は小寸の型である。
聖徳太子とこけしとの関係を語る縁起については佐藤泰平の下記報告がある。
秦野川勝が聖徳太子の命をうけ国分寺造営の為東国に下ることになった。日頃寵愛した待臣の身を案じた太子は、自ら木像を彫って曰く「川勝よこの木像を我と思い彼の地に携えよ」と、そして木像に太子自身の血を吹きかけ己れの分身として彼に与えた。川勝は、その木像を奉じて東北に旅する内、半身不随の病を得て難渋をしたが、岩代国突湯の里に霊湯のあるを知ってこの地に辿りつき、湯につかった所瞬時にして病快癒し手足が元通り利くようになった。奏野川勝は太子の功徳を彰する為に太子堂を建立し木像を安置し、併せて温泉の霊湯を播めたという。何時の頃からか太子像になぞらへて木のにんぎょうを挽き、太子が己が血を吹きかけたことになぞらって木のにんぎょうに朱色で描いた。それ以来、湯治客がその木にんぎょうを購って太子堂に奉納し湯につかれば病も亦快癒するという縁起が生れた。〈土湯木でこ考・第3集〉
ただこの縁起も、聖徳太子(544-622年)や秦川勝は6世紀から7世紀前半の人、一方聖武天皇による国分寺造営の詔は8世紀の天平13年(741年)であり、時代が100年以上もずれた話が混交している。
太子信仰は鎌倉時代以降に四天王寺の別当を兼ねた慈円等によってひろめられ、中世にはかなり盛んになったと言われているので、太子信仰が東国に広がった時期に、土湯にも入ってきたものと思われる。
太子型あるいは地蔵型は、太子信仰の太子堂を持つ土湯と、地蔵信仰が盛んであった福島一帯からの湯治客たちとの接点において生まれた形象であろう。
〔右より 佐久間由吉、渡辺和夫、斎藤弘道の太子型〕