作田栄利

作田栄利(さくたえいり:1898~1965)

系統:遠刈田系

師匠:佐藤吉郎平

弟子:作田栄一/作田隆/鎌田文市

〔人物〕 明治31年7月9日、宮城県刈田郡遠刈田温泉商業作田良瑞長男として遠刈田温泉に生まれる。大正2年遠刈田新地の佐藤吉郎平の弟子となり木地を修業した。佐藤吉弥、佐藤巳之吉は兄弟子である。大正5年に年期が明け、お礼奉公の後独立開業した。その後弟子として弟の隆、鎌田文市を養成、大正8年に入隊するまで一緒に働いた。11年に除隊後は不況により木地物が売れないため、木地を専業としては作らず、県や郡の同業組合に入り、炭焼き検査官として戦後まで勤めた。昭和15年頃より、蒐集家の要請により少しづつ作るようになり、昭和16年仙薹きぼこ会〈木ぼこ〉で名前が紹介され、〈古計志加々美〉で作品が写真紹介された。
昭和22年に新地で隆と共に木地業を再開した。同29年頃には伝統こけしを本格的に作り、37年には温泉町の自宅を改装し自分の店を開店したが、昭和40年3月8日になくなった。享年67歳。


〔左より 佐藤巳之吉、佐藤吉郎平、作田栄利、佐藤吉弥〕大正3年頃


左:作田隆 右:作田栄利 昭和33年


左より 作田栄利、作田孝一、作田隆 昭和36年 撮影:露木昶

〔作品〕 大正8年入隊以前の作品は残っていない、古いもので残ってるのは昭和15年佐藤友晴木地に描彩したものである。栄利が弟子入りした頃、師匠の吉郎平はこけしを作らなかったため佐藤松之進の作を参考に作ったという。この頃は既に吉郎平も丸万商店の傘下にあったため松之進作=丸万の既製品を作ったと記した方が正しいかもしれない。初出の文献は仙薹きぼこ會の〈きぼこ〉。昭和15年のものは比較的多く残ってる。鬢が八の字になる点など松之進の影響が確認できるが、同門の巳之吉と同様に重ね菊以外の模様は確認できない。戦後は晩年を除き自挽きとなった。彼が挽いたものは頭部の形が角張り・胴の肩も張り、遠刈田が文助一辺倒だった時代に丑蔵や吉弥・吉之助と共に自身の型を作った一人である。なお、作品の変遷(戦後)については〈木の花・20号〉「戦後の佳作」で詳しく記載されている。

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〔右より 16.1cm(昭和32年)(庄子勝徳)、24.1cm(昭和15年)(楳茂都陸平旧蔵)〕

〔右より 31.5cm(昭和29年)、21.5cm(昭和34年)(高井佐寿)〕
〔右より 31.5cm(昭和29年)、21.5cm(昭和34年)(高井佐寿)〕

〔伝統〕 遠刈田系吉郎平系列。弟子には弟の隆と長男の栄一、孫弟子には隆長男の孝一がいる。

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