佐藤三蔵(遠刈田)

佐藤三蔵(さとうさんぞう:1926~2000)

系統:遠刈田系

師匠:佐藤豊治

弟子:佐藤正直/阿子島文夫

〔人物〕 大正14年8月15日遠刈田温泉の木地業、佐藤豊治五男として生まれる。昭和15年遠刈田尋常小学校卒業後、仙南交通の事務員となり、昭和18年4月に志願兵として横須賀第二海兵団に入った。昭和20年8月宮城県多賀城の海軍工廠で終戦をむかえ帰郷し、豊治につき木地を修業したが12月に豊治が死亡したため以後は弟の佐藤里見から指導を受けた。この時期は主に小寸こけし・輪投げ・たばこ入れ・徳利袴等を挽いた。昭和23年には里見が転業し、同25年には弟の正直を弟子とした。この頃新型こけしブームが始まり、昭和32年頃まで他の遠刈田の工人と同様新型を中心に挽いた。昭和30年代後半からは次第に伝統こけしの比重が高くなり、昭和39年頃には新型を完全にやめて、伝統こけし専業となった。昭和44年に自宅を改装して店を出し営業したが平成9年頃老齢により廃業した。平成12年11月16日没した、行年75歳。

佐藤三蔵一家 昭和36年 撮影:露木昶

左より 佐藤三蔵、高橋広平 昭和40年


自宅前の三蔵

佐藤三蔵  撮影:佐藤 健兒朗
佐藤三蔵  撮影:佐藤 健兒朗

〔作品〕 昭和22、23年頃のものは頭がやや小さな遠刈田一般型であった。同じ時期の里見のものとよく似ているが目の描き方の違いで区別がつく。昭和34年頃の作例は〈こけし〉改訂版(昭和35年発行)に掲載されており、頭がやや大きく丸くなり、佐藤文助の影響を受けているのが確認できる。その後少しずつ頭の形を角ばらせていった。父豊治の型は昭和38年より開始、初めのものは、それまでの一般型の表情の眼点を小さくして、割れ鼻を猫鼻に変えただけのものであったが、研鑽を積み、同39年半ばにはロクロ線を紫色に改めるなど「おかめ」の愛称で親しまれた豊治のこけしを完全に再現することに成功した。昭和42年には箕輪新一の勧めで〈こけし這子の話〉の豊治の型を復元するなど、各種豊治型を研究した。以後はこけし製作を止めるまで豊治型を作り続けたが、昭和50年代中期から面描の線がやや太くなり、ロクロ線も赤色に変った。昭和50年代後半には面描の線は細いものに戻ったが、平成の時代になると筆に震えが見られるようになった。

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〔24.2cm(昭和22年6月)(橘文策旧蔵)〕

〔右より 24.5cm(昭和42年12月)、21.4cm(昭和42年11月)〈こけし這子の話〉豊治復元、13.7cm(昭和48年3月)(橋本正明)〕 佐藤豊治型三種
〔右より 24.5cm(昭和42年12月)、21.4cm(昭和42年11月)〈こけし這子の話〉の豊治復元、13.7cm(昭和48年3月)(橋本正明)〕 佐藤豊治型三種

〔伝統〕 遠刈田系周治郎系列。後継者に弟の正直がいたが早い時期に転業、阿子島文夫は戦後の本人型のみ継承が許されている。

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