佐藤三蔵(秋保)

佐藤三蔵(秋保)(さとうさんぞう(あきう):1879~1952)

系統:遠刈田系

師匠:太田庄吉

弟子:菅原庄七/山尾武治/塩野惟信/山尾春吉/毛利政治/佐藤吉雄/佐藤武雄

〔人物〕明治12年5月10日、仙台市生出村坪沼の郡山佐平の次男に生まれた。明治21年10歳の時、秋保村湯元字薬師の農業佐藤卯平治の養子となった。明治28年17歳のとき太田庄吉(秋保出身)に弟子入りした。〈こけしの追求)によると、庄吉はこけしも作り、小寸物が多かったという。三蔵は、明治34年に年期明けし、そのまま庄吉の家で職人として働いた。
明治43年1月庄吉が死亡したがそのまま太田家で木地業を続けた。翌44年、後に三蔵の妻女となるよしのの甥にあたる菅原庄七を弟子とした。このころには三蔵はこけしをあまり作らず、盆、茶筒、雑器が中心であり、庄七は当時青根から職人として来ていた佐藤子之助の胴模様なども描法の参考にした。
大正3年、三蔵は師太田庄吉の養父庄之助の妻みよしの妹よしのと結婚した。大正5年よしのが二人目の子供を身ごもったのを機に太田家から独立して自分の工場を持った。その工場には菅原庄七も移った。三蔵の下には山尾武治が弟子入りし、以後塩野惟信、山尾春吉、毛利政治、佐藤吉雄、佐藤武雄が入門したが、こけしについては三蔵からの伝承はよりも、兄弟子の庄七に負うところが大きいという。
大正7、8年ころにはこけしがよく売れたが、三蔵はほとんど作らなかった。以後も農業のかたわら、木地挽きを続けたが、昭和6、7年ころにはもはやロクロに上がることは無かった。昭和15年、深沢要や天江富弥の再々の懇望により思い出のこけしを作り始め、昭和19年ころまで作ったらしい。終戦後は作らず、昭和26年に中風となって1年ほど床についた後、昭和27年2月25日に没した。行年74歳。

秋保 佐藤三蔵

秋保 佐藤三蔵

描彩する佐藤三蔵 撮影:水谷泰永

描彩する佐藤三蔵 撮影:水谷泰永

〔作品〕太田庄吉に弟子入りしたころには盛んに作ったというが、残っていない。
師の庄吉は青根の佐藤久吉の弟子であり、三蔵のこけしも吉郎平系列久吉家の流れを汲むこけしであったと想像される。昭和14年〈こけしと作者〉で初めて紹介されたものは、佐藤吉雄の代筆であったが、同15年、深沢、天江両氏の再々の懇望により自作を若干作り出した。垂れ鼻や手絡の真中に墨を入れる点、鬢にを描く点は古い時代の遠刈田こけしの特徴が集約されている。胴紋様は「るの字」のような特殊な紋様と、重ね菊とがある。
〈こけし手帖・50〉で土橋慶三は三蔵のこけしをA型、B型、C型に分けている。A型は昔の記憶をたどり、数十年ぶりに復活したもので、最もよく庄吉こけしの面影を伝えているとした。
下掲の深沢コレクション、西田コレクションの二本はA型の作例、「るの字」様の胴模様は独特であり、また、頭部手絡中央の後方に描く黒髪、上端の閉じた垂れ鼻、湾曲の少ない瞳、目じりより低い位置で始まる低い鬢など古式であり、古い青根(佐藤久吉)の描法が継承されていたと思われる。この二本はともに深沢要が昭和15年1月に秋保を訪ね、目前で制作してもらった三本のうちの二本である。「前髪の小さい鬢下がりのいかにも親しみのあるこけしを受け取る時には、さすがに嬉しかった。」と深沢は〈こけしの追求〉に書いている。これ以前には「三蔵は本当にこけしを作ったのか」という疑問を抱く人もいたが、深沢要の追求によって、作者として認識されるようになった。

〔20.0cm(昭和15年)(深沢コレクション)〕
〔20.0cm(昭和15年)(日本こけし館)〕 深沢コレクション


〔 16.1cm(昭和15年)(西田記念館)〕 西田コレクション

土橋慶三は〈こけし手帖・50〉で下掲作り付けをB型としている。作り付け以外では、細身の胴の上下にロクロ線を加えたものに、主に「るの字」模様を加えたものをB型としている。この時期も鬢は目じりより低い位置から始まる。ただ年代的にはともに昭和15年ころのもので大きな差はなく、若干、庄七を初めとする当時の秋保こけしの様式を反映させたものをB型と言っている。


〔 15.2cm(昭和15年)(鈴木康郎)〕 麻生修旧蔵、62才の記入

C型は、木地吉雄のもので秋保こけしの影響がさらに強いものとしている。
下掲は〈こけし手帖・50〉に久松保夫蔵として掲載されたもので、土橋慶三はこれを吉雄木地のC型の作例とした。この時期になると鬢の始まりも目尻の位置より高くなる。


〔 30.9cm (昭和17年頃)(鈴木康郎)〕久松保夫旧蔵 

戦後はほとんど作らず、息子の吉雄、武雄や庄七の代作であった。三蔵の死後も三蔵名儀の代作が出ていたという。

系統〕遠刈田系秋保亜系

青根の佐藤久吉が作っていたであろう遠刈田古型こけしを太田庄吉を経由して継承した工人として重要である。三蔵の型を弟子の庄七が発展させて秋保亜系が確立した。
菅原敏が三蔵型を復元した。

〔参考〕

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