青根は、宮城県柴田郡川崎町(旧国陸奥国、明治以降は陸前国)、蔵王東麓不忘山の中腹にある標高730mの温泉(硫酸塩泉)。「天文の頃(1532-1555)、前川村の百姓四名が青木の皮で蓑を作らんとして大いなる青木の側に立ち寄りしにその青木の根より温泉湧きいずるによって、四名ここに移住して浴池を作る。よって青根の湯と号す。」と伝えられる。江戸時代は仙台藩伊達氏の御殿湯が置かれ、度々の伊達公の入湯の記録もある。 現在も、藩主専用の湯治場であった青根御殿が存在するが、明治時代に焼失したものを昭和初期に再建したものである。
文久年間(1861-1864)に伊達慶邦公が訪れた際、遠刈田新地の佐藤周右衛門と佐藤文吉が二人挽の技を披露したという。
こけしの歴史にとって青根が重要なのは、明治18年に丹野倉治が設立した木地細工工場に、東京本所の木地師田代寅之助が招かれて、多くの弟子に一人挽の足踏み轆轤を伝授したからである。この丹野の工場では、遠刈田の佐藤久吉、茂吉、重松、重吉、文平が働いたが、弥治郎から佐藤幸太が、蔵王高湯からは岡崎栄治郎が、作並からは槻田与左衛門が、秋保からは太田庄吉が、土湯からは阿部常松が来て、田代寅之助が伝えた一人挽を学んだ。
各地のこけし工人が青根の丹野の工場に集まり、互いの手法に刺激を受けながら、足踏轆轤の利点を最大限に生かして新しい様式を生み出していった。やがて彼らが自分の村に戻って独自のこけしを育て広めることによって「こけしの十系統」が確立したのである。云わばこの時代の青根は各系統のこけしの揺籃の地であった。
明治26年になると、青根で漆器の椀類を商っていた小原仁平が、丹野の工場に対抗して小原木地工場を設立、遠刈田から佐藤寅治、佐藤直治らを招き、さらに直助、文平なども加わって、盛大に操業を行った。遠刈田の周治郎、重吉、治平、鳴子の大沼岩蔵、のちに花巻に移る照井音治らも一時この小原工場で働いた。丹野、小原が競った明治30年代が青根木地業の最盛期であった。生産量は遠刈田を凌ぎ、製品は仙台、白石、蔵王高湯、山形、飯坂にまで出荷された。なお佐藤直治は、小原仁平の娘きくのと結婚して婿となったので、小原直治の名で知られる。
明治38年丹野工場で中心になって働いた佐藤久吉が48歳で亡くなり、40年には丹野倉治も亡くなったので丹野工場は縮小衰微の道をたどることになる。明治39年4月7日、青根温泉に大火があり、旅館2館・駐在所を含む5戸48棟を焼失した。小原工場もこの大火で消失し、明治41年に再建されたが経営は苦しく、以後地元の消費だけを支える程度の規模となった。小原直治が大正11年に亡くなった後は事実上営業は休止となった。
丹野・小原の工場で働いた主な工人は次のとおりである。
- 丹野倉治グループ:佐藤久吉・茂吉・重松・幸太・菊地勝三郎・菊地茂平・岡崎栄治郎・海谷善蔵・太田庄吉・阿部常松・鈴木三吉・槻田与左衛門・佐藤久助・子之吉・久蔵・大沼新三郎・佐藤重吉・菊治・鈴木幸之助・海谷七三郎・佐藤文平
- 小原仁平グループ:小原直治・恭治・亀一・佐藤七蔵・寅治・文六・文平・直助・直蔵・周吾・善八・島津善三郎・菊地孝太郎・照井音治・大沼由蔵・佐藤貢・真壁健造・大沼岩蔵
このうち青根で戦後までこけしを作り続けたのは、佐藤菊治、菊地孝太郎、佐藤貢である。
近年まで、菊治六男佐藤忠がこけしを製作していたが、高齢のため廃業した。道具類は遠刈田にいる弟子の小松里佳に譲られた。