田代寅之助

遠刈田に足踏みロクロ(一人挽きロクロ)を伝えたという木地師。
東京本所の人で、日光の菅原熊吉のもとて1年ほどを仕事をしたのち、仙台の高橋胞吉のところに寄り、そこで遠刈田新地に木地屋が多いと教えられて、明治18年旧1月16日(3月2日)に新地へやって来た。新地で約1ヵ月にわたり、佐藤周治郎佐藤久吉、佐藤茂吉、佐藤七蔵、佐藤吉五郎、佐藤寅治、佐藤重松の7名を弟子として、足踏みロクロの技術を指導した。足踏みロクロは周右衛門の家のまえの9尺四方のサッカケ小屋に据え付けられ、そこで田代寅之助が実演して技術を伝えた。ロクロだけでなく鉋や錐の工具、染料などについても新しいものを教えた。指導料は1日1円で30日間を7人で分担して払ったという。指導後、田代は各工人の家に足踏みロクロを取り付けるのを手伝い、旧3月のころ東京に戻った。

 
佐藤茂吉の小屋に据え付けられた足踏みロクロ(佐藤友晴画)

その後、同年の明治18年7月に青根の丹野倉治が、田代寅之助をふたたび東京より呼び寄せ、雇用関係を結び、新地からきた佐藤茂吉、佐藤久吉、佐藤重松、青根の槻田与右衛門、菊地勝三郎、弥治郎の佐藤幸太などを弟子として、箱根製品を摸した製品を製作した。これが成功して、親方の寅之助は収入も多くなり、9月には日光の菅原熊吉方に厄介になっていた妻のお京、子の金太郎、母、妻の弟徳次郎などを呼びよせた。しかし、寅之助は木地の技術こそ秀れていたが、生来怠惰で贅沢を好み、自分は働かず、弟子の働きのピンハネをして華美な生活に溺れ、丹野倉治に借金もできはじめた。
その後、東京で一緒に働いたことのある膽澤為次郎や、知合いで通称でぶ寅こと寅治郎などの木地挽きが来たが、材料不足、工場設備不十分などの理由で去ったため、寅之助は工場拡張の計画をたて、倉治と相談のうえ、明治19年春、三間四方の工場と三間に十間の材料小屋を新築し、新たにロクロ十台をそなえ、材料も120円ほど仕入れ、東京の知合いの職人を呼びよせた。しかし職人は一人も集まらず、その後もあいかわらず怠惰で贅沢な生活を続けた結果、倉治からの借金も600円に達し、明治19年6月のある夜、ついに夜逃げをして青根を去った。行先は栃木県塩原温泉という。その後の消息および生没年等は不詳である。
田代寅之助が青根を去ったのち、残された家族は1ヵ月間弟子たちが養ったのち、妻の実家の日光鉢石町へ送り届けた。また、工場建設の際、弟子たちが借金の保証人となっていたため、その返済もしなければならなかったという。寅之助が去った後、弟子たちはみな、丹野倉治の職人となり、若年の佐藤宰太は茂吉へ、菊地勝三郎は久吉へ改めて弟子入りして、足踏みロクロの技術を完成させた。
なお、一人挽き技術伝承に関わった工人で「でぶ寅」とあだ名された工人もいたが、その工人の名は寅治郎で、田代寅之助とは別人である。

田代寅之助が遠刈田、青根に伝えた足踏みロクロの技術は、遠刈田の佐藤周治郎から井上藤五郎(肘折)、佐藤栄治(弥治郎)、我妻勝之助へ、佐藤久吉から岡崎栄治郎(蔵王高湯)、太田庄吉(秋保)へ、佐藤寅治から毛利栄治(飯坂の佐藤栄治)へ伝えられ、この間に新技術に伴って各種の新手法も考案された。阿部常松は土湯ですでに足踏みを身に付けていたというが、やはり常松もこの時期に佐藤茂吉のもとで働いており、この新様式考案の気運の渦中にいた。これらの工人たちが自分たちの本拠とした東北各地に戻り、従来の様式を発展させて独自性の高いこけしを作りだした。
このように田代寅之助や膽澤為次郎による足踏みロクロ技術の伝承と、その新技術に伴って新様式の揺籃環境が生じたことが、こけしの系統への分化と確立の一つの大きな要因となった。

〔参考〕

  • 佐藤友晴:工人田代寅之助〈蔵王東麓の木地業こけし〉(昭和36年10月)
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